『画本東都遊』より「紺屋の図」 浅草菴(編) 葛飾北斎(画) 享和2(1802)序刊

紺屋(こうや・こんや)とは?紺屋と諺(ことわざ)について


l紺屋は、「こうや」や「こんや」と読みます。

日本の中世(平安時代後期(11世紀後半)から、戦国時代(16世紀後半)までの500年ほど)においては、「紺搔」「紺座」「紺灰座」「紺屋」など、藍染に関する文献における記載も多くみられます。

紺屋(こうや・こんや)とは?

『江戸叢書第12巻』『増補江戸惣鹿子名所大全』江戸叢書刊行会(作)1916〜1917

『江戸叢書第12巻』『増補江戸惣鹿子名所大全』 江戸叢書刊行会(作)1916〜1917

室町時代後期には「職人」という階層が成立し、染色を仕事にする集団が生まれます。

紺搔こうかき」といわれる藍染職人がいたことが『職人歌合絵しょくにんうたあわせえ』などからわかっており、「紺搔こうかき」が「紺屋こうや」の前身と考えられています。

藍染の濃い色は「こん」ですが、藍染め屋の主な仕事が紺染であったため、いつしか紺家こうや紺家こんやと呼ばれるようになったとも考えられます。

かつては日本中のいたるところの町や村には紺屋があり、その証拠に現在も日本各地にある地名として紺屋町(こんやちょう、こんやまち、こうやまち)という名前が残っています。

日本における藍染の歴史について詳しく知りたい方は、下記の記事をお読みいただけると、藍作と藍染が発展し、衰退していった背景を知ることができます。

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紺屋と諺(ことわざ)

藍染の液に浮かぶ華(はな)

藍染の液に浮かぶ華(はな)

紺家こうやという言葉が使用される諺(ことわざ)が、いくつかあります。

紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)

紺屋こうや白袴しろばかま紺掻きこうかき(こんかき)の白袴)」ということわざは、紺屋が自分のはかまを染めないで、いつも白袴しろばかまをはいていることをたとえて、「他人のことに忙しくて、自分自身のことには手が回らないこと」や、「いつでもできることを、放置しておくこと」を表します。

布を紺色に染めるのを仕事とする紺屋が、自分の袴も染めないで白袴を穿いているという対比が、自分自身のことはおろそかになっている様子をよく表しています。

また、染め物をしているのにもかかわらず、シミが一つもない白袴を履いているという職人の意気いき(仕事の丁寧さ)をあらわしているとも言われます。

紺屋(こうや)の明後日(あさって)

紺屋の仕事は、天候や藍の染料の状態(染まり具合)などに左右されるため、あれこれ理由を付けてお客からの希望の納期を延ばすようなことが多くあったようです。

「明後日には染め上がる」というような言い訳を紺屋がよくしていため、「紺屋の明後日」ということわざが生まれたと考えられます。

「紺屋の明後日」ということわざは、納期の言い訳をする紺屋の職人を言い表すように、「当てにならない期限の約束」を意味します。

「紺屋の明後日」ということわざから派生して、いつも明後日と言いながらその約束に守らないため、そのような嘘をつく者は特別の地獄へ落ちるということから、「紺屋の地獄」ということわざもできました。

「紺屋の明後日」と同じように、鍛冶屋かじやも「明晩みょうばん(明日の晩)できます」と言いますが、なかなかその通りにはいかなかったことから、返事だけは威勢が良く、いつできるのか当てにならないことを「鍛冶屋の明晩かじやのみょうばん」と言い表しました。


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