l紺屋は、「こうや」や「こんや」と読みます。
日本の中世(平安時代後期(11世紀後半)から、戦国時代(16世紀後半)までの500年ほど)においては、「紺搔」「紺座」「紺灰座」「紺屋」など、藍染に関する文献における記載も多くみられます。
目次
紺屋(こうや・こんや)とは?
室町時代後期には「職人」という階層が成立し、染色を仕事にする集団が生まれます。
「紺搔」といわれる藍染職人がいたことが『職人歌合絵』などからわかっており、「紺搔」が「紺屋」の前身と考えられています。
藍染の濃い色は「紺」ですが、藍染め屋の主な仕事が紺染であったため、いつしか紺家や紺家と呼ばれるようになったとも考えられます。
かつては日本中のいたるところの町や村には紺屋があり、その証拠に現在も日本各地にある地名として紺屋町(こんやちょう、こんやまち、こうやまち)という名前が残っています。
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紺屋と諺(ことわざ)
紺家という言葉が使用される諺(ことわざ)が、いくつかあります。
紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)
「紺屋の白袴(紺掻き(こんかき)の白袴)」ということわざは、紺屋が自分の袴を染めないで、いつも白袴をはいていることをたとえて、「他人のことに忙しくて、自分自身のことには手が回らないこと」や、「いつでもできることを、放置しておくこと」を表します。
布を紺色に染めるのを仕事とする紺屋が、自分の袴も染めないで白袴を穿いているという対比が、自分自身のことはおろそかになっている様子をよく表しています。
また、染め物をしているのにもかかわらず、シミが一つもない白袴を履いているという職人の意気(仕事の丁寧さ)をあらわしているとも言われます。
紺屋(こうや)の明後日(あさって)
紺屋の仕事は、天候や藍の染料の状態(染まり具合)などに左右されるため、あれこれ理由を付けてお客からの希望の納期を延ばすようなことが多くあったようです。
「明後日には染め上がる」というような言い訳を紺屋がよくしていため、「紺屋の明後日」ということわざが生まれたと考えられます。
「紺屋の明後日」ということわざは、納期の言い訳をする紺屋の職人を言い表すように、「当てにならない期限の約束」を意味します。
「紺屋の明後日」ということわざから派生して、いつも明後日と言いながらその約束に守らないため、そのような嘘をつく者は特別の地獄へ落ちるということから、「紺屋の地獄」ということわざもできました。
「紺屋の明後日」と同じように、鍛冶屋も「明晩(明日の晩)できます」と言いますが、なかなかその通りにはいかなかったことから、返事だけは威勢が良く、いつできるのか当てにならないことを「鍛冶屋の明晩」と言い表しました。