上布とは、苧麻(からむし)の糸を用いて平織りにした上質な麻布のこといい、もともとは中布、下布に対して上質な苧麻布を表す言葉として使用されていました。
糸が細く、織りあがった布が薄手であればあるほど上質なものとされ、越後上布(えちごじょうふ)や奈良晒(ならざらし)、近江上布(おうみじょうふ)や能登上布(のとじょうふ)、宮古上布(みやこじょうふ)や八重山上布(やえやまじょうふ)などが良く知られています。
上布は、主に夏物の着尺地(大人用の着物1枚を作るのに要する布地)として最高級のものとされ、白生地、紺無地、縞物、絣などがあります。
目次
越後上布(えちごじょうふ)
越後上布とは、新潟県から生産される平織りの麻布です。
小千谷、六日町、塩沢を中心とした地域で盛んに織られてきました。
越後上布の原料は、イラクサ科の植物である苧麻(からむし)の靭皮を細く引き裂いた青苧(青麻)と呼ばれるものが用いられます。
『延喜式』には、「越後布」としてのとしての記載があり、1000年以上も前から麻織物の産地として知られていたことがわかります。
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奈良晒(ならざらし)
奈良晒とは、麻の生平を晒して(漂白)して白くしたもので、麻織物のなかでは高級品とされていました。
奈良晒の起源は古く、嘉禎2年(1236年)に、奈良春日大社遷宮の調度品として、常陸の国(茨城県)から「曝布」を取り寄せたことに始めるとされています。
天正年間(1573年〜1591年)に、清須美源四郎という人物が奈良で晒しの新製法を考案したところ、徳川家康に賞されたといわれ、これを奈良晒の始まりとする説もありますが、真偽は定かではありません。
文献によると、江戸時代初期の慶長年間(1596年〜1615年)には、幕府に「曝20疋」が献上されています。
永原慶二 (著)『苧麻・絹・木綿の社会史』には、布を晒すことの大切さに関連して、奈良晒しに関する記述が以下のようにあります。
今日でも越後上布は独自の雪晒によって漂白され、その美しさを高めている。江戸時代の木綿の場合も、晒しは完成品の品質を定める決めてといってもよく、松坂木綿・真岡木綿などの声価は、もっぱら晒技術によっていた。
実際は松坂木綿・真岡木綿などの名のある場合でも、織布そのものは、ひろく各地の村々で行い、最後の晒を松坂や真岡で行なったのである。同様に奈良晒というのも、最終仕上げの工程である晒が奈良で行われたのである。永原慶二 (著)『苧麻・絹・木綿の社会史』
江戸時代の晒しの技術は、完成品の品質を決めるほどに重要視されていたということが語られています。
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近江上布(おうみじょうふ)
近江上布とは、滋賀県の琵琶湖の東岸の神崎、愛知、犬上地区などで織られる麻布を表しています。
この琵琶湖周辺は、琵琶湖の豊富で良質な水に恵まれているため、古くから数々の布が織られてきました。
近江上布という名前は、明治時代以後に人々から使用されるようになり、男物は白絣、女物は紺地で紺嫁絣と呼ばれ、広く知られていました。
滋賀県の琵琶湖の東岸地域の上布は、室町時代には織られていたとされています。
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能登上布(のとじょうふ)
能登上布は、能登半島の付け根にあたる部分の石川県鹿西町や鹿島町を中心とした地方で織られ、石川県の無形文化財に指定されています。
織られた能登上布を漂白するために、海水に布をつける「海晒し」の作業が古くは行われていました。
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江戸時代初期の元禄年間(1688年〜1704年)に、能登の人が越後(新潟県)へ行き、上布の技法を習得し、能登へ伝えたのが、能登上布の始まりとされています。
石川県の能登において、能登上布という麻織物が古くから有名で、昭和初期には機屋が120軒、織物業者が原料を出して、一般家庭の子女などに家で織物を織らせる出機が6000台を数え、麻織物生産数全国一位を誇っていました。
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宮古上布(みやこじょうふ)
宮古上布とは、沖縄の宮古島で織られる上布です。
宮古上布の由来は、天正11年(1583年)に、この島に住む下地真栄の妻である稲石が、当時の琉球王の尚永王(1559年〜1589年)に「綾錆布」を献上したところにあると伝えられています。
この「綾錆布」は、美しい錆色をした上布という意味で、いわゆる紺上布を表し、これが現在の宮古上布の始まりとされています。
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八重山上布(やえやまじょうふ)
八重山上布とは、別名「赤縞上布」や「白上布」とも呼ばれ、多くの伝統を持つ八重山地方における代表的な織物です。
八重山上布は、その歴史は古く、17世紀ごろから織られています。
夏用の着尺として、白地に焦茶の絣が織り出されています。
原料は、この島に自生していた苧麻が元々は使用されていましたが、のちに経糸に木綿を用い、緯糸に苧麻を使った白地絣の交織布が作られるようになります。
八重山地方も、明治維新までは、薩摩藩の藩政下に入っていたため、この地の麻織物は、「薩摩上布」の名前で販売されていました。
したがって、「八重山上布」という名前は、新しい呼び名なのです。
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