中国地方や四国地方の瀬戸内海地域では、江戸時代から明治時代の初めにかけて、木綿の栽培が盛んに行われていました。
愛媛県の伊予では、木綿から糸を紡ぎ、木綿織物が早くから織られていたようです。
伊予絣(いよがすり)とは?
伊予絣とは、愛媛県の伊予地域で織られていた絣の木綿織物です。
この地域では、絣が織られる以前は、伊予結城や道後縞と呼ばれる織物が多く出回っていました。
伊予絣の起源としては、享和年間(1801年〜1804年)頃に、現在の愛媛県の松山に住んでいた鍵谷カナ(1782年〜1864年)という女性の工夫から始まったといわれています。
鍵谷カナは、伊予(愛知県)松山の今出に生まれ、小野山藤八と結婚します。
一説によると、享和二年(1802年)に夫婦一緒に讃岐の金比羅詣に出かけた際、船中で久留米絣を着る女性(商人)に出会い、その美しさに魅了されたといいます。
それ以後、自分で絣を研究し、絣の技術を完成させたといわれています。
別の説としては、「押し竹」と呼ばれる藁葺き屋根を葺き替える際、屋根に敷き詰めた茅の上に置く長い竹を、縛った跡の美しい斑紋(まだらの模様)が出ていることに彼女が気づき、これを織物に応用して、絣括りを開発し、伊予絣の元祖とされる「今出絣」を織り始めたという説です。
つまり、久留米絣にヒントを得たという説と、彼女自身の創意工夫から生まれた説の2つがあるのですが、いずれにしても、鍵谷カナという女性が伊予絣の先駆者であったことには違いないようです。
伊予絣が山陰地方における絣の発祥地ともいわれるのは、伊予の地域が瀬戸内海に面しており、交通の要所となっていたことが大きな要因とされます。
そして、木綿に良く染まり、絣を染めるための大事な原料である藍が、徳島を中心に栽培されていたことから、伊予にも豊富に運ばれていたことが挙げられます。
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昭和にはいると、ほとんど機械化され、大量生産されるようになり、久留米と備後(現在の広島県東部)に並ぶ、日本の三大木綿絣の産地の一つとして数えられるほどとなりました。
伊予絣の技法
伊予絣の原糸は、もともとは手紡ぎ糸が使用されていましたが、紡績糸が輸入され、自国での機械紡績が発達するにつれて、経糸・緯糸共に紡績糸が使用されていました。
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原糸を経糸用と緯糸用に区別してから、約20反分n長さに手毬上に巻き取り、釜に入れて、苛性ソーダのアルカリで精錬し、さらにカルキなどを使用して漂白されます。
苛性ソーダなどの薬品がない時代は、木灰から作るアルカリ性の液体である灰汁が精錬に使用されていました。
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絣括りは、もともとは手括りでしたが、自動の絣括り機によって自動的に糸が括られます。
括られた糸束は、大きなカセ状にして漬け込み式の染色槽で染色されます。
もともとは、天然の藍染が行われていましたが、合成染料が主流となってからは、化学的に合成された染料での染色が行われてきました。
染色が終わったら、水洗いしてから天日で乾燥し、糸に糊付けし、絣解し、水洗い、部分的な色差し絣の場合は、摺り込みで染色のような流れの工程となります。
織機は明治時代末期からは、主に足踏み式のものが使用されていましたが、その後は動力機が使用されました。
日露戦争直後に最盛期を迎えて年間約246万反生産され、昭和初期には年間200万反、その後は減少の一途をだどりました。