コプト織とは、3世紀から8世紀にかけて、エジプトでコプト人によって製作された平織りの織物のことです。
いわゆる綴れ織りを主とした技法の織物で、コプト織は、経糸に麻を使い、緯糸に主にウールを用いて模様部分を表現しています。
織り込まれた模様は、聖書の登場する人物や場面、動植物や幾何学模様など様々です。

コプト織,Metropolitan Museum of Art, CC0, via Wikimedia Commons,Link
目次
コプト織の特徴
5世紀までの初期のコプト織は、一般的に薄手なのが特徴的です。ゆるく撚りをかけた3本撚りの麻糸(三本の糸を一つの糸にした糸)を経糸に用いています。
コプト織の模様部分は、主にウールの緯糸で表現しています。
5世紀以降になると、地の糸の素材は麻で、4本撚りの経糸による織りとなり、文様をつくるために重くて太い毛糸を用いていました。
6〜8世紀になると、経糸は一本で強く硬く撚られるようになります。コプト織の後期時期は、 エジプトで一般的にみられたS撚りではなく、Z撚りが多くみられます。
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Z撚りが多くみられた理由としては、シリアなどの周辺国やアジア諸国から糸が輸入されたためであると考えられています。
コプト織の歴史
コプト織が生まれた歴史的背景には、コプト人とキリスト教の関わりが要因の一つとなっています。
コプト人とキリスト教
コプト人はキリスト教を信仰していましたが、彼らこそが古代エジプトの伝統を受け継ぐ民族でもありました。
古代から死後の世界の生活が、真の生活と考えていたエジプト人にとって、死後の人間のあり方を明らかに説いたキリスト教は親しみやすく、容易に入信したのです。
ただ、コプト人の信じるキリスト教は、イエス・キリストの神性をとくに強調する異端説である「キリスト単性説」とされるものでした。
キリスト単性説において、イエス・キリストは、神性と人性の両性を持つものとはせず、神性と人性が結合したのち、人性は神性に吸収されてしまい、神性しか残らないというような考え方でした。
キリスト単性説は、451年に東ローマ帝国で開かれたキリスト教の公会議であるカルケドン公会議に置いて異端とされましたが、コプト人は単性説を信仰しつづけ、その結果絶えず外部から圧迫を受けていました。
コプト人が繁栄をきわめたのは、451年から639年にわたる約200年の間で、この間にエジプト固有の文化とキリスト教とともに導入された外来文化の融合によって、独自のコプト文化を生み出したのです。
芸術的な素質に優れ、建築から絵画、彫刻、そしてコプト織と呼ばれる染織品など現代にも伝わる作品が残っています。

コプト織,EgyArt, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons,Link
コプトの美術の時代区分
コプトの美術は、一般的に3つの時期に分類されます。
第一期は、ヘレニズム(ギリシア風の文化)の影響を強く受けた時代で、第二期はコプト織ならではの独立した美術が生まれた時期で、この時はビザルチン(東ローマ帝国の文化様式)の影響をも乗り越えて、独自の美を築いたのです。
第三期は、イスラムの文化を加えながら、その装飾性を深めながら取り入れていった時代でした。
コプト織も3〜5世紀を初期のスタイルとして、5〜7世紀が成熟期、7世紀以降は後期のコプトの時期と分類されています。
ただ、現実にコプト織の年代を決めるのは難しく、考古学的な発掘によって得られた絵画や彫刻の特徴と比較することでしか決める方法がありません。
現在、世界中に伝わっている多くのコプト織は、コプト人のお墓で死者に着せた衣服(屍衣)として使用されていたものが主流で、その多くは墓荒らし(盗掘)によって得られたものでした。
コプト織,Coptic textile,Wmpearl, CC0, via Wikimedia Commons,Link
コプト織りの源流、アル・タールの織物
イラクのアル・タールで発見された多くの染織品のなかに、コプト織と表現がほとんど同じものが多く存在したことがわかっています。
アル・タールの織物は、放射性炭素法によって、最も古いものは紀元前1030年で、新しいもので紀元後170年です。
コプト織の時代に先行するものと考えられ、アル・タールの出土品は、コプト織の源流とも考えられます。

コプト織,coptic textile,Giorgi1975, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons,Link