コプト織(Coptic textiles)とは、主に2世紀から12世紀にかけて、エジプトでコプト人によって製作された平織りの織物を表します。
いわゆる綴れ織りを主とした技法の織物で、コプト織は、経糸に麻を使い、緯糸に主にウールを用いて文様(模様)部分を表現しています。
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コプト織(Coptic textiles)とは、主に2世紀から12世紀にかけて、エジプトでコプト人によって製作された平織りの織物を表します。
いわゆる綴れ織りを主とした技法の織物で、コプト織は、経糸に麻を使い、緯糸に主にウールを用いて文様(模様)部分を表現しています。
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1602年、オランダが「東インド会社」を設立し、インドネシアのジャワを拠点に、明や日本と交易を開始します。
この頃になってヨーロッパの文明が、島国の日本に影響を与えるようになるのです。
江戸時代に海外との交易拠点となっていた平戸や長崎にあったオランダ商館歴代館長が記した公務日誌『オランダ商館日記』には、数々の染織品の記載があります。 続きを読む
小袖は現在の「きもの」の原型にあたるもので、その名の通り、袖口が狭く詰まった仕立てになっています。
小袖の起源は、平安時代中頃に庶民の日常着や宮廷における男女の下着から発生したと言われています。
鎌倉から室町時代において武家が台頭してくるにつれて、服装の簡略化が進み、上層階級に下着として用いられていた小袖はだんだんと上着として使われて、庶民の小袖も上質化してきました。
その後、政治、文化の転換点である応仁の乱(1467年〜1477年)を境に、各階層共通の衣装の形式として小袖が完成したのです。
暖簾は、現代においても私たちの日常生活の中で見かけます。
お店の入り口にかけられたりするのを見ると、お店の「顔」としての目印になっていることはよく分かりますが、それ以外にも暖簾の意味や役割、機能性があります。 続きを読む
江戸時代後期に、町人の間で好まれた模様(文様)が縞です。
縞は英語で「stripe(ストライプ)」ですが、柄を表現するのには、シンプルであるがゆえに、色糸、柄の大小や間隔の組み合わせによって無限大の表現方法があると言えます。
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16世紀ごろから、ヨーロッパの東方進出によって、インドで生産される染織品の優秀さが知られるようになります。
木綿、羊毛、絹などの織物や更紗など、優れた染織品が世界中に伝わっていき、日本にその当時に輸入された綿織物の多くもインド産のものでした。
インド更紗は、17世紀にオランダやイギリス、フランスやポルトガルなどのヨーロッパの列強が東南アジア貿易の拠点として作り上げた「東インド会社」によって、大量にヨーロッパにもたらされました。
17世紀にヨーロッパ社会に登場したインド更紗は、18世紀〜19世紀にかけてヨーロッパの文化や経済を根底からくつがえす大きな力の一つとなったのです。 続きを読む
井桁の読み方は「いげた」であり、井桁模様は古くから織りや家紋などのデザインに使用されてきました。 続きを読む
編み物技術の起源としては、はっきりとしたものはありませんが、編み物(ニッティング)は、およそ3000年前に、アラビア半島に住む遊牧民によって、彼らが自ら率いる羊や山羊の毛を使って行われていたとも考えられす。
編み物は、アラビアの商人や船乗りによって、徐々に他国に伝わっていき、編み手は旅する時に、編針と糸を持参して、編みながら立ち寄った港の人々に技術を伝えたとされます。
ただ、歴史的に参考になるような品々や資料は、ほとんど残ってない状況です。
現存する最古の編み物に遺品とされるものは、11世紀後半から12世紀前半ごろに作られたとされ、エジプトで発掘されたくつ下の一部です。
この時期にはすでに編み物が技術的に発達していたことが、うかがい知れるのです。
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紋というと、基本的に「家紋」を表し、代々その家に伝わる家の印として、家系や個人を識別し、その地位を表すために使われてきました。
紋には、正式の紋と略式の紋があり、略式の紋は正式の紋の一部であったり、全く別の簡単な図柄を使うこともあります。
紋はもともと武家の男子に用いられていましたが、江戸時代中期以降に、武家の女子にも使い始められ、彼女たちの小袖の背中と両袖に1つずつ染め抜かれるようになりました。 続きを読む