武士や侍の装束は、平安時代中期の「承平天慶の乱(931年〜947年)」から、明治維新直前の「大政奉還(1867年)」に至るまで、約1000年という長い歳月の中で独自の進化を遂げてきました。
それは単なるファッションの変遷ではなく、日本の統治構造が公家から武家へと移り変わる歴史そのものでした。
武士・侍はどのような衣服を着ていたのか?1000年にわたる服飾の歴史
Group-Samurai-Scholars,Ueno Hikoma (1838-1904), Public domain, via Wikimedia Commons,Link
目次
1. 武家服飾の誕生:公家文化への心酔と実用主義の対立
平安時代末期、台頭した武士たちは自らの地位を示すため、2つの選択肢に直面しました。
- 公家社会の厳格な服飾制度を取り込む:権威を重んじる道。
- 日常的な実用服を発展させる:戦いや生活に根ざした機能性を重んじる道。
破竹の勢いで権力を広げた平家は前者の道を選び、公家装束に「六波羅様」という独自の美意識を加えました。
対して、平家を滅ぼした源氏は、関東生まれの武士である坂東武者の質実剛健(心身共に強くたくましいさま)の質実剛健な精神を尊重し、後者の実用的な服飾文化を育てていったのです。
「形式昇格(けいしきしょうかく)」という現象
武士の服飾史において最も特徴的なのが「形式昇格」です。
これは、もともと下層階級の作業着や日常着だったものが、機能性の高さから上位階級に採用され、やがて公式な「正装・礼装」へと格上げされる現象を指します。
2. 武家服飾における「ハレ(非日常)」と「ケ(日常)」
武士の装いは、場面によって対照的な二面性を持っていました。
- ハレ(非日常): 戦場での戦衣。己の武功と存在感を誇示するため、独創的で華やかなデザインが施されました。
- ケ(日常): 日々の生活。装飾を削ぎ落とし、実用性を極限まで追求。ここから多くの「形式昇格」が生まれました。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣が終わり、江戸幕府が豊臣家を滅ぼしたことによって、戦乱が終わり平和になったことで、非日常的な(ハレ)における独創的な武家服飾を発揮する場所も失われていきます。
江戸幕府による泰平の世が訪れると、独創的な「ハレ」の場は失われ、日常着(ケ)が急速に形式化・制度化されていくことになります。
3. 具体的な武士の装束とその特徴
■ 狩衣(かりぎぬ)
狩衣,Metropolitan Museum of Art, CC0, via Wikimedia Commons,Link
もともとは野外での遊猟用(ハンティングウェア)で、麻製のものは「布衣」と呼ばれました。
袖が胴体にわずかに縫い付けられているだけの構造で、非常に動きやすいのが特徴です。
平安時代には公家の日常着でしたが、武家社会で「形式昇格」が起こり、最高格の礼服となりました。
格が上がるにつれ、素材も麻から二重織や紗などの高級絹織物へと変化しました。
■ 水干(すいかん)
「水張りにして干した布」から名付けられた、実用的な狩衣の一種です。
もともとは庶民や下級役人の服でしたが、鎌倉時代には将軍や上皇も着用するまでに格上げされました。
縫い目の補強として付けられた「菊綴」というボンボン状の装飾が特徴的で、菊綴は、次第に装飾性が重んじられるようになります。
余分なヒモ部分をほどいたボンボン状のものが、菊の花に似ていたため、「菊綴」と呼ばれました。
■ 直垂(ひたたれ)
鎌倉時代以前は庶民の服でしたが、武家社会の到来とともに幕府重臣の通常服となり、江戸時代には将軍や諸大名四位以上が着用を許される最高位の礼服へと昇り詰めました。
直垂は、闕腋、垂首、身二幅、袖が奥袖、鰭袖からなる上着で、鎌倉時代以前は庶民の日常的に着ている衣服でした。
- 闕腋: 脇の下を縫わずにあけておくこと
- 垂首: 襟を打ち合わせて着用する形式
- 身二幅:布を二枚縫い合わせて頭と腕を出す穴のみ縫い残したもの
- 奥袖:衣服の部分の名称で、袖付け側の部分のこと
- 鰭袖:衣服の部分の名称で、袖幅を広くするため、袖口にもう一幅または半幅つけ加えた袖
■大紋(だいもん)
大紋は、大きな家紋を五箇所に染め出した布製の直垂で、直垂に準ずる装束とされました。
室町時代以降、一般の直垂とは区別されるようになり、「大紋の直垂」あるいは単に「大紋」と称されるようになります。
江戸時代には、五位の武家である諸大夫以上の式服と定められ、下には長袴を用いるのが定式となりました。
■ 素襖(すおう)
素襖は「素袍」とも書かれ、大紋から変化した装束で、その起源は室町時代にさかのぼるとされています。
もともとは武家社会における礼装として成立しました。
形は布製の直垂で、胸元を留める胸緒や、袖口を飾る菊綴に、韋緒が用いられている点が特徴です。
このことから、素襖は「韋緒の直垂」とも呼ばれていました。
着用の際は、上着と同じ素材・同じ色の長袴を合わせるのが一般的ですが、上下の色が異なる場合は「素襖袴」と呼ばれます。
また、半袴を用いる場合は「素襖小袴」と称されました。
江戸時代に入ると、大名をはじめとする武士階級にも素襖の着用が広まり、烏帽子とともに、幕府における礼服としての位置づけが確立されていきます。
半袴は、江戸時代の武士が着用した通常礼服の一つで、長袴に対する呼称として用いられました。
寛文年間(1661年〜1673年)の規定では、正月三日は小袖に長袴、七日・十一日・十五日は半袴と定められており、半袴は長袴よりも軽装とされていたことがわかります。
素材は長袴と同様に麻が用いられ、小紋染で仕立てられましたが、丈には明確な違いがあります。
長袴の丈が四尺六寸(約139.4cm)であるのに対し、半袴は後長が三尺八寸(約115.2cm)、前長が二尺八寸(約84.8cm)ほどと、全体に短く仕立てられていました。
■ 裃(かみしも)・肩衣袴(かたぎぬばかま)
織田信長像,狩野宗秀筆 (Kanō Sōshū, 1551 – 1601), Public domain, via Wikimedia Commons,Link
肩衣は、もともとは下層民が用いた粗服でしたが、戦国時代の激動の中で動きやすさが重視され、素襖の袖を省いた形として武士の略式礼装となりました。
江戸時代に入ると、その形式が定着し、武家の通常礼装として用いられるようになります。
素襖の系譜を引き、麻で仕立てられたものを本式とし、肩衣と袴を組み合わせた装いを裃と呼びました。
ハレの場においては、長袴を着用したものが長裃と称され、袴と肩衣の素材や色が異なる継裃は、平服として区別されました。
古代において庶民が最も原初的な実用着として身に着けていた肩衣が、江戸時代には武家の正装へと昇華されるという、装束史の中でも特筆すべき形式的昇格を遂げたのです。
誰しも一度は目にしたことがあるであろう織田信長像においても、肩衣と袴を組み合わせた裃姿が確認できます。
4. 戦場を彩る色彩と防具
■ 甲冑の進化:大鎧・胴丸・当世具足
■大鎧(おおよろい)
大鎧は、馬上から弓を射る騎射戦を想定して作られた、重厚な武士の鎧で、成立は平安時代中期ごろとされています。
弓を射る動作に支障が出ないよう、両脇は大きく開かれ、胸部には栴檀と鳩尾と呼ばれる板を備えています。
また、馬上で太ももを防護するため、四枚構成の大型の草摺が付けられている点も、大鎧の大きな特徴です。
左右には大きな大袖が備えられ、騎射戦に必要な装備が完成された形式であったことから、着背長(著長)とも称されました。
後世には、武家社会における最も正統な鎧として、式正の鎧と位置づけられるようになります。
■胴丸(どうまる)
紺糸威胴丸具足(伝黒田家家老小河家伝来),ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), CC BY 4.0, via Wikimedia Commons,Link
胴丸は、平安時代から歩兵用として用いられてきた胴甲で、歩行時の動きやすさを重視し、草摺を八枚に細分化し、胴を右脇で深く引き合わせる構造を特徴としています。
鎌倉時代末頃から、戦闘形態が騎射戦中心の戦いから、槍や鉄砲を用いた徒歩での集団戦へと移行していくにつれ、胴丸は次第に大鎧に取って代わる存在となりました。
この流れの中で、武将たちは袖と冑を付属させた「三つ物」を完備する形式を採用するようになります。
胴丸という名称が用いられるようになったのは、永禄年間(1558年〜1570年)頃からとされ、それ以前は「腹巻」の名で呼ばれていました。
■当世具足(とうせいぐそく)
鎌倉時代末以降、戦闘形態が騎射戦から徒歩による集団戦へと移行すると、それに柔軟に対応する新たな戦闘用甲冑が求められるようになりました。
そこで、右脇を引き合わせる構造を持つ胴丸を母体とし、胴部を鉄板製とした新しい甲冑が成立します。
この新形式の甲冑は「当世具足」と称され、それまで用いられてきた胴丸や腹巻は、これに対して「昔具足」と呼ばれるようになりました。
また、権威や威容を示すための装飾にも大きな変化が見られ、特に冑は戦国武将の美意識を強く反映した、きわめて個性的な造形が施されるようになります。
こうした冑は当世冑と称され、当世具足を象徴する要素の一つとなりました。
| 種類 | 特徴 | 主な用途 |
|---|---|---|
| 大鎧 | 重厚で装飾的。太ももを守る「草摺」が4枚。 | 平安〜鎌倉期の騎馬戦(弓)用。 |
| 胴丸 | 右脇で引き合わせる構造。動きやすく軽快。 | 徒歩による集団戦・接近戦用。 |
| 当世具足 | 鉄板を多用し、防御力と量産性を両立。 | 戦国時代以降、鉄砲戦に対応した最新装備。 |
■弽(ゆがけ)・足袋(たび)
弽は、弓を射る際に手指を傷つけないために用いられる韋製の手袋で、弓懸、弾、手覆などとも呼ばれました。
韋とは、毛や脂肪を取り除き、柔らかくなめした動物の皮を指します。
左右一対で用いるものは一具弽、あるいは諸弽と称され、右手のみにつけるものは的弽などと呼ばれました。
足袋は、戦闘様式が歩行戦中心となるにつれて武将にとっても不可欠な装備となり、応仁・文明の乱(1467年〜1477年)頃からは、武士の正装の一部として用いられるようになります。
素材は古くは鹿皮が用いられ、近世に入ると木綿が主流となりました。
■鎧下(よろいした)
鎧下には、当初は日常と同様に直垂や水干が用いられていましたが、動きやすさや実用性を高めるため、袖口を小さくし、袖口および袴の裾口に括緒を設けた専用の鎧直垂が用いられるようになりました。
戦陣において武将の晴れ姿を飾り、小具足姿での華やかな出陣を演出するため、生地や文様には贅沢で多彩な意匠が好まれたと考えられています。
鎧の下に着用される衣服であるため、戦い方や甲冑の形式が変化すると、それに応じて鎧下の形態も変遷していきました。
■陣羽織(じんばおり)
当世具足が普及し、鎧下が防具に覆われて装飾的役割を果たしにくくなると、具足の上に着用する陣羽織が、戦場において強い存在感を示すようになります。
もとは防寒や防水を目的とした実用着でしたが、次第に戦功を誇示し、死をも恐れぬ武将の覚悟を演出する戦衣へと変化していきました。
素材には羅者や毛織物が用いられ、当世冑に劣らぬ斬新な意匠が競われたのです。
■胴服(どうぷく)
胴服は、胴の部分のみを覆う短い衣類を指し、室町時代末頃に成立したとされています。
後の羽織の原型とされ、「道服」「筒服」などとも表記されました。
■小袖(こそで)
小袖は、もともとは庶民の実用着であり、上層階級においては下着として着用されていました。
中世中頃になると、表着としての形式が整えられ、次第に時代を代表する服装として広まっていきます。
流行を牽引したのは武家であり、桃山時代から江戸時代初期にかけての遺品には、武家の美意識や嗜好が色濃く反映されています。
関連記事:寛文小袖とは?鹿子絞りを中心に、刺繍や縫い絞りを併用し、動植物や文字、器具などを動的な文様として表現した小袖。
■熨斗目(のしめ)
熨斗目は、無地の練緯を地が縮まないように伸ばし、堅く織り上げた小袖地を指します。
熨斗目で仕立てた小袖は、袖下や腰回りに筋や格子を織り出すことが一般化し、腰替小袖の代表的な形式となりました。
江戸時代には、士分以上の者が礼服として麻裃の下に着用しました。腰替りの文様を入れず、定紋も付けない熨斗目は片色と呼ばれ、定紋のみを配したものは紋片色と称されました。
5.威と色彩と美意識
平安時代末期に登場した武士は、簡素で重厚な文化を築きましたが、戦場という非日常(ハレ)の場において用いられた戦衣、とりわけ甲冑(大鎧)には、きわめて華やかな色彩が施されていました。
大袖、胴、草摺などを構成する小札板を、組紐などで綴じ合わせることを「威す」といい、この威し糸は美しい色で染め分けられていました。
威しは糸の色や配色によって名称が付けられ、糸色によるものには「赤糸威」「萌黄糸威」「浅葱糸威」「紺糸威」などがあります。
配色による名称には、裾に向かって濃色になる「裾濃威」、端を淡色とした「端匂威」、多彩な色糸を用いる「色々威」などが知られています。
室町時代から戦国時代にかけて、甲冑は実戦性を重視した形式へと変化していきますが、この「威し」の技法と美意識は途絶えることなく受け継がれていきました。
まとめ:機能美が作り上げた日本の伝統
武士の衣服の歴史は、「使い勝手の良い服が、やがて格式高い正装へと昇華していく」という機能美の歴史でもあります。
実用性を重んじる武士の精神が、1000年という時間をかけて、今日私たちが知る日本の伝統的な装いを作り上げたのです。
【参考文献】
- 『武士の装い(京都書院美術双書―日本の染織)』
- 『日本の色彩 藍・紅・紫』