「カーキ」は、軍服の色としては一般的です。
「褐色」「茶褐色」「黄褐色」「枯れ草色」「ベージュ」「ブラウン」などが「カーキ」と括られることもあり、その色合いにはさまざまなものがあります。
カーキ(khaki)の語源はペルシャ語で、インドのヒンディー語に入った「khak=埃」から「khaki=土埃」となってイギリスに伝わり、「khaki=土埃」は、乾いた土地の色(大地の色)を表しました。
世界中で使用される軍服のほとんどはカーキであり、日本軍にカーキの軍服が採用されたのにも理由があります。
イギリス軍の軍服におけるカーキ(khaki)
イギリスは、19世紀にインド支配を確立しましたが、しばしば現地で反乱や暴動を招きました。
当時、イギリスのインドを拠点とした駐屯軍は、夏は白、冬は赤の軍服を着用していました。
白、赤の軍服はよく目立ったため、謀反(反逆)を起こした者たちによる狙撃の目標になっていました。
謀反(反逆)を起こした者たちは、現地産のインド木綿の「生成り」などを着用し、さらに衣類は汚れていました。
それが保護色となり、岩陰に隠れたりすると視認しにくく、イギリス軍を悩ませたのです。
1846年に「ハリー・ラムズデン(Harry Lumsden)」が、現在のパキスタンでイギリス軍に協力する現地民を選抜して、不正規の「イギリス軍(英国斤候隊)」を組織し、隊員に白木綿を「カーキ」に染めた制服を支給しました。
染色には、ヤシや茶の葉、川の泥、馬牛の糞尿が用いられたといいます。
この軍は、隠密行動と奇襲作戦でしばしば功績をあげ、保護色としてのカーキ色の効用が認められ、正規軍の軍服にも一部採用されるようになりました。
イギリスは、1898年にカナダ駐屯軍を除き、全植民地軍の軍服をカーキに切り替えたのです。
その直後、現在の南アフリカ共和国に先住していたオランダ系農民「ボーア」を追い払い、ダイアモンドなどの地下資源を獲得するため、ボーア戦争(南ア戦争(1899年〜1902年)を起こします。
この戦争がカーキの軍服を着用したイギリス軍による、最初の戦争となりました。
この結果から、イギリスは1902年、全陸軍の軍服を正式にカーキ1色にしました。
1903年には、アメリカの陸軍も追随するようにカーキ色を採用し、前後してヨーロッパ各国も植民地軍を一斉にカーキにするのです。
大陸諸国の本国軍は、黒や青などの旧来のままの軍服で、全面切り替えは、第一次世界大戦(1914年〜1918年)の後になります。
日本の軍服におけるカーキ
日本では、幕末の一部の幕府軍や明治初期の日本の陸軍は、主にフランスやドイツを模範にしていたため、冬は黒(紺)、夏は白の軍服を着用していました。
この軍服で、日本は「日清戦争」(1894年〜95年)を戦い、「義和団事件(北清事変)(1899〜1900年)にも出兵しました。
義和団事件に出兵したイギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ロシアなどの植民地軍はすでにカーキの軍服でしたが、日本軍の黒や白の軍服はよく目立ったため、狙撃による犠牲が多かったとされます。
このため、一部の部隊(第五師団)には、急遽、試験的にカーキの軍服が支給されたのです。
日本は日露戦争(1904年〜1905年)の勃発時に、ようやくカーキ色への切り替えが決まりました。
正確には、黒、白に加えて、「茶褐色に為すことを得」としました。
このため、日露戦争における日本軍の大部分の先発軍が黒色の軍服を着用し、一部の後発軍がカーキになりました。
1905年の「陸軍戦時服服制」で「カーキ」を認め、1906年には戦時、平時を問わずカーキ1色とする「陸軍戦時服服制」を制定したのです。
明治時代において、染色業界の指導者の一人である稲畑勝太郎(1862年〜1938年)が、軍服用のカーキ染色の研究を進めた人物でした。
国防色(こくぼうしょく)としてカーキ
日本では第2次世界大戦(1939年〜1945年)の直前から、英語などを敵性語(敵対国や交戦国で一般に使用されている言語を指した語)として禁止したため、カーキを「国防色」と言い換えていました。