コプト織(Coptic textiles)とは、主に2世紀から12世紀にかけて、エジプトでコプト人によって製作された平織りの織物を表します。
いわゆる綴れ織りを主とした技法の織物で、コプト織は、経糸に麻を使い、緯糸に主にウールを用いて文様(模様)部分を表現しています。
目次
コプト織の特徴
5世紀までの初期のコプト織は、一般的に薄手なのが特徴的です。
ゆるく撚りをかけた3本撚りの麻糸(三本の糸を一つの糸にした糸)を、経糸に用いています。
コプト織の模様部分は、主にウールの緯糸で表現されています。
5世紀以降になると、地の糸の素材は麻で、4本撚りの経糸による織りとなり、文様(模様)をつくるために重くて太い毛糸が用いられていました。
6〜8世紀になると、経糸は一本で強く硬く撚られるようになります。
コプト織の後期時期は、 エジプトで一般的にみられたS撚りではなく、Z撚りが多くみられます。
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Z撚りが多くみられた理由としては、シリアなどの周辺国やアジア諸国から糸が輸入されたためであると考えられています。
コプト織の色合いと文様(模様)
コプト織の色合いは、褐色や赤紫色を用いたものがもっとも古く、だんだんと黄色や緑、藍色が用いられてきたとされます。
織り込まれた文様(模様)は、人物や舞踏、神話的なもの、次いでキリスト教の象徴として十字架、聖書の登場する人物や場面、動植物なども非常に多いです。
後期には、イスラム文化の影響から、幾何学模様に移行していきます。
コプト織の歴史
コプト織が生まれた歴史的背景には、コプト人とキリスト教の関わりが大きな要因の一つとなっています。
コプト人とキリスト教
コプト人はキリスト教を信仰していましたが、彼らこそが古代エジプトの伝統を受け継ぐ民族でもありました。
古代から死後の世界の生活が、真の生活と考えていたエジプト人にとって、死後の人間のあり方を明らかに説いたキリスト教は親しみやすく、容易に入信したのです。
ただ、コプト人の信じるキリスト教は、イエス・キリストの神性をとくに強調する異端説である「キリスト単性説」とされるものでした。
キリスト単性説において、イエス・キリストは、神性と人性の両性を持つものとはせず、神性と人性が結合したのち、人性は神性に吸収されてしまい、神性しか残らないというような考え方でした。
キリスト単性説は、451年に東ローマ帝国で開かれたキリスト教の公会議であるカルケドン公会議に置いて異端とされましたが、コプト人は単性説を信仰しつづけ、その結果絶えず外部から圧迫を受けていました。
コプト人が繁栄をきわめたのは、451年から639年にわたる約200年の間で、この間にエジプト固有の文化とキリスト教とともに導入された外来文化の融合によって、独自のコプト文化を生み出したのです。
芸術的な素質に優れ、建築から絵画、彫刻、そしてコプト織と呼ばれる染織品など現代にも伝わる作品が残っています。
コプトの美術の時代区分
コプトの美術は、一般的に3つの時期に分類されます。
第一期は、ヘレニズム(ギリシア風の文化)の影響を強く受けた時代です。
第二期はコプト織ならではの独立した美術が生まれた時期で、この時はビザルチン(東ローマ帝国の文化様式)の影響をも乗り越えて、独自の美を築いたのです。
第三期は、イスラムの文化を加えながら、その装飾性を深めながら取り入れていった時代でした。
コプト織も2〜5世紀を初期のスタイルとして、5〜7,8世紀が成熟期、8世紀以降は後期のコプトの時期と分類されています。
ただ、現実にコプト織の年代を決めるのは難しく、考古学的な発掘によって得られた絵画や彫刻の特徴と比較することでしか決める方法がありません。
現在、世界中に伝わっている多くのコプト織は、コプト人のお墓で死者に着せた衣服(屍衣)として使用されていたものが主流で、その多くは墓荒らし(盗掘)によって得られたものでした。
前期のコプト織(2世紀から4〜5世紀)
前期のコプト織(2世紀〜5世紀)は、美術様式が前代からのギリシャやローマ風が残っていることから、コプト美術ではグレコ・ローマン時代と言われています。
染織品ではその模様に、ギリシャ神話からモチーフとされた神々の姿が多く描かれています。
キリスト教に関した模様も多く、旧約聖書の物語を表したものが見受けられます。
また、ナイル河周辺の田園の風物、魚や水鳥、犬や羊や獅子などの動物が生き生き描き出されています。
色彩は、薄茶地に黒で文様(模様)を織り出したものが多く、特には白と黒の撚糸が用いられています。
人物の顔つきや体の輪郭などには白い糸を浮かせて、いわゆる浮糸にして刺繍のように織り出しているものも多くあります。
多色な色糸を用いて陰影をつけ、ローマ時代の壁画やモザイクを思わせるような立体的な表現をしたものも、2〜3世紀ごろのコプト織の中にみられるのです。
中期のコプト織(5〜6世紀から7〜8世紀)
5世紀になるとコプト織には、派手な色彩の入ったものが多くなってきます。
赤や緑、藍などで花模様や人物模様が織り出されています。
模様のモチーフには、キリスト教的なものには天使や光背をつけた聖人らしい人物を扱ったものはありますが、前期のものにみられた旧約聖書の物語(アダムとイブ、イサクの犠牲)を扱ったものなどは少なくなり、狩猟模様や動物模様などが多くみられます。
色彩の多いものは、ビザンチンのモザイクなどの影響とも言われますが、人物や動物の形には稚拙さが加わり、カリカチュア風(風刺的な)に表されたものが多くなり、面白さはあるものの、前期のものと比べると形の崩れた感じがあります。
前期に引き続き、黒や褐色の単色で表したものもあり、技術的には精細になっていますが、模様の形はやや形式化して、前期のものに見るような柔軟さや力強さは落ちています。
文様(模様)のテーマや技術の範囲は広がり、パイル織や文織りも現れてきます。
特に、袋物にみられる捩編(もじりあみ)は、さまざま色糸を交えた精巧なものが作られています。
後期のコプト織(8世紀から12世紀)
後期のコプト織(8世紀から12世紀)で特徴的なのは、イスラムの影響で素材の上では絹(シルク)が用いられはじめます。
絹綴織(きぬつづれおり)には、細い絹糸を用いた繊細で精緻なものが見られ、イスラム風で花模様や文字を織り出したものが多くなってきます。
技術的には、浮織や縫い取り織りなどが次第に織られていきますが、文様(模様)はアラビア風な幾何学模様が多く、絵画風なものはあまり見られません。
コプトの伝統を伝える毛綴の人物模様なども以前と織られますが。人物の形は形式化して、綴織らしい自由な彩りは失われていきます。
12世紀を過ぎると、いわゆるコプトの染織もイスラムの中に完全にのみ込まれ、コプト織りらしい特徴のある姿がなくなっていきました。
コプト織りの源流、アル・タールの織物
イラクのアル・タールで発見された多くの染織品のなかに、コプト織と表現がほとんど同じものが多く存在したことがわかっています。
アル・タールの織物は、放射性炭素法によって、最も古いものは紀元前1030年で、新しいもので紀元後170年です。
コプト織の時代に先行するものと考えられ、アル・タールの出土品は、コプト織の源流とも考えられます。
【参考文献】『エジプト古代染織展 コプト織の世界』