武士、侍はどのような衣服を着ていたのか?
その歴史は、律令制の崩壊を象徴する承平天慶の乱(931年〜947年)が起こった平安時代中期から、慶応3年(1867年)大政奉還によって武士の公服・礼服としても着用されてきた裃が撤廃されるまでの約10世紀にわたります。
目次
武士の服装と歴史
平安末期から鎌倉初期の頃は、いわゆる成り上がり者とされた武士たちが、衣生活において選択すべき道は2通りありました。
- 公家社会の厳格な服飾を階級制に取り込む
- 自分たちが慣れ親しんだ服飾形式を発展させる
武家として破竹の勢いで権力を広げていった平家は、①の厳格な服飾を階級制に取り込む方を選択し、公家装束に六波羅様と呼ばれる独自の嗜好を取り入れました。
平家滅亡後に覇権を得た源氏は、華やかさを抑え、関東生まれの武士である坂東武者の質実剛健(心身共に強くたくましいさま)の精神を尊重して、自分たちの服飾形式を発展させていきました。
その後北条氏が、狩衣より水干、水干より直垂というように、生活に密着した実用的で機能的な形式の正装化や礼装化を推し進めていきました。
時代が公家社会から武家社会に移っていく過程において、もともとは社会の下層にあったともいえる服飾形式が、身分が上とみられる人々に取り入れられることによって移行していく「形式昇格」の現象がみられたのです。
形式昇格は服飾の歴史によくみられるものですが、この形式昇格の劇的な流れこそが武家服飾の最大の特徴といっても過言ではないのです。
武家服飾におけるハレとケ
武家の服飾における独創性は、戦いの際の戦衣に代表される非日常的な(ハレ)装束に発揮されていました。
日常的な(ケ)装束においては、実用性を重んじ装飾をできるだけ削ぎ落とす精神のもと、生活に根ざした衣生活によって、頻繁に形式昇格が起きていったのです。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣が終わり、江戸幕府が豊臣家を滅ぼしたことによって、戦乱が終わり平和になったことで、非日常的な(ハレ)における独創的な武家服飾を発揮する場所も失われていきます。
同時に日常的な(ケ)装束も、急速に形式化していきました。
武家の装いは、非日常的な(ハレ)と日常的な(ケ)の対照的な二面性を持つことによって、数百年にもわたる間、時代の風俗を主導していったのです。
形式昇格の現象を踏まえつつ、武士の装いを以下で具体的に紹介していきます。
武士、侍(サムライ)はどのような衣服を着ていたのか?
狩衣(かりぎぬ)
狩衣は、もともと野外で用いられる遊猟の服で、麻製であるため布衣と呼ばれていました。
狩衣の形態ですが、※身一幅(身頃が一幅で身幅が狭いため、袖を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方)、闕腋、盤領(袍や襖などの衿を、下前から上前にかけてまるく仕立てた円形の衿)、袖が奥袖、鰭袖からなり、袖付けは、後身のところをわずかに縫い付けられただけで、動きやすくゆったりと過ごすことに適した形をしています。
袖口には括りヒモが通っていて、必要に応じて袖口が絞れるようになっています。
平安時代には、公家の日常着であった狩衣が、次第に武家の最高格の衣服となりました。
この形式昇格にともなって、二重織物、綾、顕紋紗などの高級な生地が用いられるようになりました。
水干(すいかん)
水干は、水張りにして干した布の意味で、その布で仕立てられた水干狩衣のことです。
形は狩衣にのっとっていますが、多くの場合裾が短く仕立てられ、ほころびやすい縫い目の箇所に補強として組紐の端をほぐした菊綴が付けられました。
菊綴とは、縫い目のほつれを防ぐために、ヒモを縫い合わて、縫い目上の重要な場所にヒモを通して結んだもので、余分なヒモ部分をほどいたボンボン状のものが、菊の花に似ていたため、「菊綴」と呼ばれました。
菊綴は、次第に装飾性が重んじられるようになります。
水干は平安時代には、下級役人や公家に雇われた武士、庶民が用いた実用的な衣服でしたが、鎌倉時代になって形式昇格し、平絹・綾・紗・錦などで仕立てられるようになり、一般武士から将軍や上皇にまで着用範囲が広がりました。
直垂(ひたたれ)
直垂は、※闕腋、※垂首、※身二幅、袖が※奥袖、※鰭袖からなる上着で、鎌倉時代以前は庶民の日常的に着ている衣服でした。
※闕腋・・・衣服の両わきの下を縫い合わせないであけておくこと
※垂首・・・襟を肩から胸の左側と右側に垂らして、引き合わせて着用すること
※身二幅・・・布を二枚縫い合わせて頭と腕を出す穴のみ縫い残したもの
※奥袖・・・衣服の部分の名称で、袖付け側の部分のこと
※鰭袖・・・衣服の部分の名称で、袖幅を広くするため、袖口にもう一幅または半幅つけ加えた袖。
鎌倉時代以降の武士の台頭とともに幕府に仕える人々の通常服となり、やがて礼装・儀礼用になっていきました。
江戸時代になると完璧に正装化して、将軍以下諸大名四位以上の者しか着用できない礼服となりました。
袴に、上着と同じ生地(共裂)を使用するようになってからは、袴も含めて直垂と呼び、裃と通称されていきました。
大紋(だいもん)
大紋は、大きな家紋を五箇所に染め出した布製の直垂で、直垂に準ずるものとされました。
室町時代から、一般の直垂とは区別され、「大紋の直垂」または単に「大紋」と称されるようになったのです。
江戸時代には、五位の武家(諸大夫)以上の式服に定められ、下に長袴を用いました。
素襖(すおう)
素襖は素袍とも書き、大紋から変化した服で、室町時代がその始まりとされています。
布製の直垂で、胸の部分のヒモである胸緒や菊綴に、韋緒が使用されたので、「韋緒の直垂」とも呼ばれました。
上着と同じ素材で同じ色の長袴をはくのが普通ですが、上下色が異なっている場合を素襖袴、半袴を用いるのを素襖小袴と言いました。
江戸時代になると、大名も素襖を着用するようになり、烏帽子とともに素襖が幕府の礼服となりました。
裃(かみしも)・肩衣袴(かたぎぬばかま)
肩衣は、もともとは下層民の用いた粗服でしたが、戦国の激動の時代に動きやすさを図って、素襖の袖がはずされて武士の略式礼装となり、江戸時代には、通常の礼装として用いられるようになりました。
素襖の流れをくんで麻でできたものを本式とし、肩衣と袴の組み合わせを裃と呼びました。
ハレの所用には、長袴を着用したものが長裃と称され、袴と肩衣の素材や色が異なる継裃は平服として区別されました。
古代に庶民がもっとも原始的な実用着として着用していた肩衣が、江戸時代に武家の正装となるという究極な形式昇格が成し遂げられたのです。
誰しも一度は見たことがあるであろう織田信長像は、肩衣と袴(裃)を着用しています。
大鎧(おおよろい)
大鎧は、馬上から弓を射る騎射戦用の重厚な鎧で、平安時代中期ごろに成立したとされています。
弓を射るために両脇が大きく広がり、胸には栴檀と鳩尾の板をつけ、馬上において太ももを隠すために、特徴的な4枚の大型の草摺がついています。
大袖が左右の方についており、装備が完成しているところから、着背長(著長)という名称がつけられ、後世には式正の鎧とよばれました。
胴丸(どうまる)
胴丸は平安時代から歩兵用に用いられてきた胴甲で、歩くやすくするために草摺を8つに細分化して、胴を右脇で深く引き合わせるのが特徴的です。
鎌倉時代末頃から、戦闘形態が馬から降り、ヤリや鉄砲を用いた徒歩での集団戦に移行していくと、次第に大鎧にとって変わるようになり、武将も袖と冑を付属させた三つ物を完備する形式をとるようになりました。
胴丸の名称は、永禄(1558年〜1570年)の頃からとされ、それ以前は「腹巻」の名で呼ばれていました。
当世具足(とうせいぐそく)
鎌倉時代の末以降、騎上から徒歩の集団戦が主流となり、新しい戦闘用式に柔軟に対応するため、右脇を引き合わせる胴丸を母体に、胴部分を鉄板製とした新しい甲冑が生まれました。
当世具足と称され、従来の胴丸や腹巻は昔具足と呼ばれるようになったのです。
権威をあらわす装飾も大きく変化していき、特に冑は戦国武人の美意識を反映して特徴的な造形がなされ、当世冑と称されました。
弽(ゆがけ)・足袋(たび)
弽は、弓を射るときに手指を傷つけないために用いる韋(毛と脂肪を取り除いてやわらかくした動物の皮)の手袋で、弓懸、弾、手覆とも呼ばれました。
左右で一セットのものを一具弽、あるいは諸弽、右手だけに用いるものを的弽など称します。
足袋は、歩行戦が中心となったことで、武将においても必需品となり、応仁・文明の乱(1467年〜1477年)頃からは武士の正装として用いられるようになったのです。
素材は古くは鹿皮が使用され、近世には木綿が主流となりました。
鎧下(よろいした)
鎧下には、普段と同じように直垂や水干が用いられていましたが、動きやすさや利便性のために、袖口を小さくして、袖口と袴の裾口に括緒を設けた専用の鎧直垂が着用されるようになりました。
戦陣で武将の晴れ姿を飾り、小具足姿の華麗な出陣を整えるものとして、生地や模様には贅沢で多彩なものが好まれたようです。
鎧の下に着るものなので、戦い方や甲冑の変化が生じると、鎧下もふさわしい形に変わっていったのです。
陣羽織(じんばおり)
当世具足が普及し、鎧下が防具に隠れて装飾的機能が果たせなくなってくると、具足の上に着用する陣羽織が戦場で注目を集めるようになりました。
もともと、防寒、防水を目的にした実用着であったが、戦争で立てた功績をきわだだせ、死を誇り高く演出する戦衣として羅者や毛織物が用いられ、当世冑に負けず劣らない斬新なデザインが競われたのです。
胴服(どうぷく)
胴服は、胴の部分のみを覆う短い衣類の意味で、室町時代の終わりごろに生まれたとされます。
羽織の原型となっており、「道服・筒服」などとも表記されます。
小袖(こそで)
小袖は、古くは庶民の実用着として用いられ、上層階級においては下着として着られていました。
中世の中頃から、表着としての形式を整え、時代の中心的な服装として広まっていきました。
流行を推進したのが武家で、桃山時代から江戸初期の遺品には、武家の嗜好がはっきりと表現されています。
関連記事:寛文小袖とは?鹿子絞りを中心としつつ、刺繍と縫い絞りを併用した技法が用いられ、動植物のみならず文字や器具が動的な模様として表現された。
熨斗目(のしめ)
熨斗目は、無地の練緯を地が縮まないように伸ばして固く織り上げた小袖地のことです。
熨斗目で仕立てた小袖は、袖の下部と腰あたりに筋や格子を織り出すことが一般化したため、腰替小袖の代名詞となりました。
熨斗目小袖は、江戸時代に士分以上(公的に苗字を名乗り帯刀することが許された正規の武士身分を持った者)の者の礼服として麻裃の下に着用されました。
腰替りの模様を入れず、定紋も付けない熨斗目は片色、定紋のみ入れたものは紋片色と称されました。
武士の戦場での色彩
平安時代末期に登場した武士は、それまでの貴族文化とは異なり、簡素で重厚な文化を築きましたが、戦場での戦衣に代表される非日常的な(ハレ)装束(特に甲冑(大鎧))には、華やかな色彩がほどこされていました。
大袖、胴、草摺などを形成する小札板を、組紐などでとじ合わせることを「威す」といいますが、この威し糸が美しい色で染め分けられていたのです。
威しは、糸の色や配色によって名前がつけらました。
糸の色による名前は、「赤糸威」、「萌黄糸威」、「浅葱糸威」、「紺糸威」などがあり、配色による名前では、下にいくほど濃色になっていく「裾濃威」、端が淡色の「端匂威」、多くの色を使う「色々威」などが有名です。
室町時代から戦国時代になっていくと、甲冑(大鎧)はより実践に適したものに形を変えていきますが、「威し」そのものは途絶えることなく続きました。
【参考文献】
- 『武士の装い (京都書院美術双書―日本の染織)』
- 『日本の色彩 藍・紅・紫』