辻が花は、室町時代末期から安土桃山時代(1573年〜1603年)にかけて流行した模様(文様)染めで、日本の染め物を代表するものであり、絞り染めの頂点ともいえます。
「辻が花」とは、室町から安土桃山時代の小袖や胴服などにみられる縫い絞りを中心に、描絵や色差し、摺箔、刺繍などを加えて独特の模様を表す染色技法を主に表しています。
辻が花は、室町時代末期から江戸時代初期のごく短い期間にのみ製作が行われ、名称の由来や技法などに不明な点が多く、遺品の数も極めて少ないことから、「幻の布」といわれることもあるほどです。
目次
幻の布と言われる辻が花(つじがはな)とは何か?
辻が花という言葉は、何を表すのか。
諸説ありますが、幕末の草双紙(江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り本の総称)の作者柳亭種彦が主張した、十字形(辻)に花をつなげた模様があるので辻が花とするという説が、最も妥当と考えられています。
江戸後期執筆した著書『柳亭筆記』には、以下のようにあります。
按に衣服に模様を摺りもし染もするは、天地のことにもとづくが多し。天とは雲形、霞の類なり。地とは是等に対へ見れば、つぢ(じ)は十字街の形なるべし。此形に花をつなぎて染たるをつぢが花といひ、茶屋染に染めたるを茶屋つぢ、桔梗色に染たるをききやうつぢと云なるべし『柳亭筆記』
上記の主張もふまえ、十字形に花を配して、その模様を多色で染めたものを辻が花と呼ぶというような説が妥当と考えられています。
現在辻が花と呼んでいる遺品のなかから、上記の特徴に該当するものをまとめると、当てはまる一郡の遺品があります。
例えば、絵模様を縫い絞りで、暈し墨で草花を描き、斜格子の十字形模様を組み合わせたものなどです。
辻が花の特徴
辻が花と呼ばれる遺品に共通している特徴は、いくつか挙げられます。
- 草花模様と州浜形、松皮菱、石畳などを組み合わせて、文様を表している
- 草花は、椿、菊、藤などを図案化した定型的な模様がほとんどである
- 図柄はすべて輪郭を縫い絞って染め分け、花や葉に暈し墨をさし、格子模様に濃墨をさしていること
いわゆる絞り染めのような手技感のあるものではなく、縫い絞りで模様の輪郭を縫っていき、締めていくことで防染し、さまざまな文様を出しています。
文様をはっきりと表現するためには、その輪郭をできるだけ細かく縫っていく必要があります。
縫い絞りに適した生地である、薄くて張りのある練貫(経糸を生糸にし、練り糸を緯糸として織った絹織物)が、辻が花を染めた生地には圧倒的に多く用いられていました。
生地に対して数倍は太い麻糸を使って、練貫の細かい織り目を数本ずつ移動しながら密に縫い上げていくのです。
辻が花の特徴として、墨の描絵(布地に筆で直接文様を描く染色技法)がありますが、墨をさすことで縫い絞りだけでは出せない文様を表現しているのです。
辻が花特有の描絵は、絞った上に墨さしを加え、草花の輪郭を描く細い線は、画一的で個性がなく、プリントのように定型化しています。
また、描絵以外にも、摺箔(型紙を用いて糊を生地に置き、その上に金箔や銀箔を貼りつけることによって、織物を装飾する技法)や刺繍などさまざまな技法を併用しながら美しさを表現されています。
辻が花に多い模様
辻が花は、桜や藤、菊や椿など四季の草花をモチーフにしたものが多く、ぼかすように表現された墨の描絵には、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁を感じさせます。
モノトーンの墨の色と草木染めの鮮やかな色彩が共鳴しあい、草花の生き生きとした造形美が表現されたのです。
『辻が花 (京都書院美術双書―日本の染織2)』には、さまざまな模様が載っていますが、シンプルに花や葉っぱを表現しているものがやはり多く、中には鳥やトンボや獅子のような文様もみられます。
辻が花の魅力
辻が花の魅力を簡単にまとめると、模様の基本となっている縫い絞りの素朴な味わいは言うまでもありませんが、他に類を見ない描絵の風流な味わいです。
日本の四季を代表する桜、藤、菊、薄、椿などの草花が、暈し墨で描かれ、花や葉は同じように露があり、病気や虫のために変色した葉(病葉)があったり、虫食いされた花も描き添えられています。
水墨画のようにたっぷりと暈し墨で描かれ、衣服の模様に病気の葉っぱや虫食いの花をこれほど数多く描き込んだ例は辻が花以外ありません。
柔らかい暈し墨が侘びた風情を添えて、果てていくものの見苦しさを感じさせない静けさが、中世の人々が茶や能の侘びを楽しみ、幽玄を重んじた美意識に通じるのかもしれません。
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また、刺繍や摺箔は、一般的には豪華で華麗な味わいを持つものですが、辻が花においては、調和を保って独自の美しさを発揮しているのです。
辻が花の歴史
辻が花の遺品のなかで制作年が最も古いものは、享禄3年(1530年)に仕立てられた「藤波桶文様裂幡」です。
藤や波頭、桶の文様が表現された布は、一部が藍で染められ金や銀の摺箔を置いたりと、すでに多彩な技法が取り入れられています。
いまのところ、室町時代中期にまでさかのぼってしまうと、「辻が花」と呼ばれるような作品は残っていませんが、最も古いと考えられている作品でさえこの出来栄えですので、これ以前にも同じようなものはつくられていたことでしょう。
文献上に辻が花の名前が初めて現れるのは、15世紀前半に成立した『三十二番職人歌合』です。
歌合は、左右に分かれて、一組ずつ歌の優劣を競う遊びで32種類の職業を選び、その職人になったつもりで歌を詠み、番い(二つのものが組み合わさって一組になること)にしたものです。
その中に桂女(頭に被り物「蔓」を付けていたことからそう呼ばれた女性)の歌があり、「春風に 若鮎の桶をいただきて、たもともつじが花を折かな」と詠まれています。
桂女が若鮎を入れた桶を頭にのせて、辻が花の袂を折っているという意味で、辻が花の小袖を着ていたことがわかります。
この歌合が成立した頃は、室町幕府の政策が安定し、全国的に商工業が盛んになっていた時期で、生活向上が庶民の衣生活を豊かにし、染めの需要の増加と高級化への流れが、手工業における創意工夫を促進することになったのです。
模様染めも本格的に発達していき、辻が花も生まれたのです。
辻が花は、室町幕府の故実書にも記載され、武家の女性や子供、若衆などは着用してよいが、成人の男子は紅入らずのものであれば、運動着には用いても良いとありますが、基本的に辻が花は女性の衣装として工夫された新しい模様染でした。
文禄5年(1596年)になると、来日していた明の使者が帰国する際に、豊太閣(豊臣秀吉)から辻が花帷子が贈られています。
辻が花という言葉は帷子(生糸や麻で作ったひとえ(裏をつけない衣服)の着物のこと)と結びついてあらわれることが多く、慶長8年(1603年)イエズス会の宣教師によって編集され、長崎で刊行された『日葡辞典』には、「Tsujigafana(つじがはな)」の項目があります。
その説明によると、「赤やその他の色の木の葉模様や紋様で彩色してある帷子。またその模様、または絵そのもの(岩波書店刊の訳)」とあり、模様染がされた帷子やその模様を意味していたことがわかります。
しかし、現存している辻が花には、麻地の帷子はほとんどなく、小袖(袖口を小さく縫いつめて小型の袖にした着物のこと)や胴服(武家の常用着。羽織の古い言い方)ばかりです。
『日葡辞典』は、来日した宣教師の目に映った辻が花をポルトガル語で説明したもので、正しく説明しているかは曖昧な点がありますが、辻が花が流行していたことがはっきりとわかる記録になっています。
室町時代から安土桃山時代を経て、辻が花の歴史が終わる
室町時代後半から安土桃山時代にかけては、描絵や摺箔が文様の主体となったり、絞りを用いらず墨の描絵だけで表現したり、練貫の白地を生かした表現方法がされたりと多様で複雑なデザインが生み出されています。
おおらかで堂々とした文様が巧みな縫い絞りやその他技法によって表現されてきた辻が花ですが、慶長期後半に(1596年〜1615年)になると、安土桃山時代にはよくみられた華麗でおおらかな色彩構成が無くなってきます。
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慶長19年(1614年)以来、江戸幕府はたびたび奢侈禁止令を出し、身分相応の衣服を定めましたが、町衆の経済力は武家を凌ぐほどの勢いで、時勢の動きは衣服の好みを大きく変え、辻が花は平絹から綸子地や紗綾地へと、材質そのものが変わっていきました。
辻が花には、次第におおらかな雰囲気が消え、鹿子絞りを多用したり、染め分けた区画のなかに刺繍や描絵の文様がこじんまりとまとまろうとする傾向があらわれるようになります。
そこから時代の流行は変わっていくもので、辻が花のスタイルも漏れなく時代の流れにのまれていってしまいます。
再び辻が花が表舞台に返り咲くことはありませんでしたが、模様染めの先駆として、染織史において大きな役割を果たしたと言えます。
【参考文献】
- 『辻が花 (京都書院美術双書―日本の染織2)』
- 『月刊染織α1982年8月No.17』