絹(シルク)の起源は、紀元前2650年前、古代中国の神話伝説時代の8人の帝王の一人で黄帝の妃である、西稜が繭から糸をとり出すことを考え、貴人などのそばに仕える女性たちに養蚕と製糸の技術を教えたことから始まったとされています。
殷代安陽期(紀元前1200〜1050年)に出土した甲骨文字の中に「蚕」「桑」「絹」「糸」に関する文字が見られることから、遅くとも殷王朝時代の中国では、(紀元前1600年頃〜紀元前1046年まで続いた中国最古の王朝)すでに養蚕が行われていたと考えられているのです。
目次
中国からシルクロードを通じて世界へ
中国において、長きにわたって絹に関する技術は国外秘にされていましたが、絹織物は、古代ギリシャのアレクサンダー大王(紀元前356年〜紀元前323年)の頃から絹の交易の道であったシルクロードを通じて輸出されました。
シルクロードは、長安からシルクロードの分岐点として栄えた敦煌、新疆の砂漠を通り、一方はインドへ続きます。
もう一方はペルシャ、コンスタンチノープル(現在のトルコの都市イスタンブール)、そしてローマ、スペイン、フランス各地へと続きました。
紀元前4世紀にはインド、紀元前2世紀にはローマやギリシャの市場に中国からの絹布が登場しています。
羊毛と麻しか知らず、シルクを産出しなかったヨーロッパでは、同じ重さの黄金と同じ価格で取引されたともいわれています。
ヨーロッパの絹業は、紀元前550年頃、ペルシャの僧が中国から持ち出した蚕の卵から始まり、イタリア、スペイン、フランス、そしてイギリスへ広がっていきました。
日本における絹(シルク)の歴史
日本における絹の歴史は、福岡県飯塚市立岩遺跡から出土した鉄製の素環頭刀子(長さ17.9cm)の柄に巻かれていた織物の素材が絹であるとわかったことから、紀元前の弥生時代までさかのぼります。
もともとは百済からきた渡来人が、第16代天皇であった仁徳天皇に絹布を献上した4〜5世紀ごろとされてました。
仁徳天皇の孫にあたる第21代天皇、雄略天皇(418年〜479年)は、養蚕を広めようと織布技術を導入しました。
奈良時代になると絹製品の種類と数が増え、生産圏も古墳時代には南は熊本、北は栃木や茨城あたりまでであったのが、南は鹿児島から北は山形にまで広がっていきます。
奈良時代の絹織物の遺物を代表するのは、奈良県の正倉院に納められている染織品である「正倉院裂」です。
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糸割符制(いとわっぷせい)による生糸の輸入
16世紀の日本の輸入品の中心は、中国産の生糸でした。
生糸(raw silk)とは、一般的にはまゆから取ったままの糸を何本か集めて1本の糸にしたもので、精錬や撚りなどの加工をしていないものを表します。
広東でポルトガル商人が買い付けた生糸が日本へ輸出され、これを求める日本側商人の競争は激しく、ポルトガル商人は多くの利益を得ていました。
江戸幕府はこの貿易を統制するために慶長9年(1604年)、少数の大商人を年寄(役職の名前)に任じ、彼らが生糸の価格を決定するまで他の商人が長崎に入ることを禁じました。
輸入された生糸を、各地の大商人で組織される「糸割符仲間」によって輸入価格が決定され、その後各仲間に分配されるようになります。
この「糸割符仲間」と呼ばれる特定の商人に一括購入、販売させるようにしたこの制度は、「糸割符制」と呼ばれます。
自主的に輸入価格を決定する糸割符制は、当然のようにポルトガル商人の強い反対を引き起こしましたが、幕府はこれを強行し、寛永(1635年)には、輸入される生糸のすべてがこの制度下に置かれました。
これに対して外国側も種々の対抗手段を試み、明暦元年(1655年)には糸割符制は停止され、双方の合意の貿易に改められました。
しかし再び日本側の 買い付け競争が激しくなったため、寛文12年(1672年)には全輸入品に対して評価入札制度(市法売買)をとりました。
その後も輸入は依然として増加し、日本からの金銀の流出が止まないため、貞享元年(1684年)にこの新制度は廃止され、生糸は糸割符制を復活するとともに、年間総輸入量が制限されました。
しかし、この頃から国産生糸の生産が増加し、次第に輸入糸は不要となってきました。
江戸時代においては、各地の大名は大いに養蚕を推奨し、山地に桑を植え、農閑期の養蚕によって農民の生活をうるおし、製糸や織物業を興しました。
そしてこの流れは明治、大正、昭和初期まで連綿と引き継がれていき、養蚕業の生糸生産高が昭和9年(1934年)に約4.5万トンと最盛期をむかえました。
生産量が増えたのは、養蚕技術の研究が進んだことが大きな要因です。
蚕の品種改良によって、世界一の高品質な絹に
近代遺伝学は、1900年に「メンデルの遺伝法則」の再発見を出発点として急速に展開されました。
この「メンデルの遺伝法則」が動物に適用できることを、外山亀太郎博士(1867年〜1918年)が蚕を材料としていち早く明かにしました。
蚕は、品種間で交雑すると(一代雑種)その子ども世代の蚕は病気に強く、繭が大きく、発育がそろったりと色々な性質に優れていることが研究でわかりました。
日本政府は、この提唱を受け、創立当初(1911年)の原蚕種製造所(蚕糸試験場)の最初の事業としてこれを取り上げ、片倉組(片倉工業)と共に官民をあげて普及に取り組みました。
その結果、わずか10年ほどで一代雑種は100%普及し、繭の生産性は倍近く向上したのです。
一代雑種の利用は、日本における蚕が最初であり、世界の農業史上においても画期的な出来事だったのです。
雑種強勢(一代雑種)
交雑種が、親より優れた形質を示すことを「雑種強勢」といいます。
その特徴は、「繭と繭糸の長さー外山亀太郎先生ー」に以下のようにあります。
- 産卵数が原種に比べて増加する
- 孵化、幼虫の育成がよく揃う
- 著しく強健になる。耐病性で飼育しやすく、不良環境に耐える
- 繭重、繭層重、収繭量が多くなる
- 繭糸織度が太く(吐糸口が大きい)、繭糸長も長くなる
- 同功繭歩合が多くなる(2頭で一つの繭を作るもので、糸がこんがらがって製糸に不向き)
純度が太くなる、同功繭(玉繭)が増えること以外はいいことばかりであることがわかります。
品種改良によって、日本の絹が世界一の高品質であると言えるまでのものになったのです。
明治時代中期からは、紡績技術が発達し、製糸時の繭屑や生糸(raw silk)にならなかった副蚕糸からも絹紡糸がつくられてきました。
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日本における養蚕の衰退
1935年ごろに生糸の輸出のピークを迎えますが、世界恐慌や第二次世界大戦、太平洋戦争によって生糸の輸出ができなくなり、絹の代替品となる化学繊維が発明され、日本の養蚕業は壊滅的になります。
戦後、需要に答えるかたちで徐々に養蚕業の復活を果たしていき、生産量も上がっていきますが、その後は世界経済の不況による価格の暴落、農業人口の減少、さまざまな化学繊維の普及によって絹糸が安価なものに代替されていきました。
手間と時間と労力がかかる大変な養蚕ですが、現代の日本各地では養蚕を復活させるプロジェクトが立ち上がり始めています。
あらゆるものごとにおいて、発達してきた現代において、蚕と人間が紡いできた歴史が再考されてきているのかもしれません。
一反分の反物を織るために必要な繭(まゆ)の数
一反分の着物の着尺約12mを織るために必要な絹糸は、もちろん前後はありますが700gほどは必要になります。
1粒の繭から、長さ800m〜1600mほどの糸がとれ、重さは大体1.5g〜2.5gで、繭のうち糸になるのは約17〜20パーセントほどです。
仮に、繭一粒あたりを2gとし、一粒から重量の20パーセント絹糸がとれるとすると、0.4gとれることになります。
その場合、例えば2000個の繭で、4kgほどの重量になり、そこから20パーセント絹糸が取り出せるとすると800gになります。
2gの繭から、0.4g絹糸がとれるとすれば、1,750粒の繭があれば、ちょうど700gで、一反分の生地を織ることができる計算です。
このように考えると、昔の人々が行っていた作業は、途方もない工程であったことがよくわかります。
【参考文献】
- 『21世紀へ、繊維がおもしろい』
- 『月刊染織α1983年6月No.27』
- 『草人木書苑 染織大辞典1』