模様染めにおいて、「地無」という言葉があります。
小袖の全面に細やかな刺繍や鹿子絞り、摺箔などの技法を用いて、単独、もしくは併用して地の部分が見えないほど一面に文様(模様)表現されたものを「地無」と呼びました。
小袖は、現在の「きもの」の原型にあたるもので、その名の通り袖口が狭く詰まった仕立てになっています。
模様染めのデザインにおける地無(じなし)
江戸時代には、御殿女中(宮中・将軍家・大名などの奥向きに仕えた女中)などが地無の小袖を着用していたようです。
『昔々物語』には、延宝(1673年〜1681年)の頃まで、人を使うほどの地位のある女中は皆、地無の小袖を持っており、祝言事や正月などに男が熨斗目を着る時などは、地無の小袖を着ていたとあります。
国宝の「小袖 染分綸子地若松小花鹿紅葉模様」は、元和(1615年〜1624年)や寛永(1624年〜1645年)の頃に流行った地無の小袖の1つです。
慶長小袖(けちょうこそで)と地無
慶長(1596年〜1615年)の終わりごろから元和(1615年〜1624年)・寛政期(1789年〜1801年)にかけて制作された小袖は、「慶長小袖」などと呼ばれます。
慶長小袖は「地無」のものがが多く作られたと考えられます。
慶長小袖の特徴としては、主に黒・紅・白の綸子地(経糸、緯糸に生糸をつかって織りあげた繻子織りの一種で、後染め用の生地)、または黒・紅・白の三色に染め分けられた生地に摺箔(型紙を用いて糊を生地に置き、その上に金箔や銀箔を貼りつけることによって、織物を装飾する技法)で柄をつくり、刺繍と鹿子絞りで模様が表現される点が挙げられます。
江戸時代(17世紀)に作られた小袖「白黒紅染分綸子地熨斗藤模様」は、いわゆる「地無し」の慶長小袖として知られています。