ザクロ(学名Punica granatum)は、インド北部からイラン、アフガニスタン、パキスタンなどのレバント(東部地中海沿岸地方)あたりを原産地とする説があり、有史以前から栽培されていたとも考えられています。
生のまま果実が食用として愛好されたり、未熟な果実の果皮は赤い染料の原料となり、モロッコでは革を鞣して赤く染めるために使用されてきました。
ザクロの主成分はアルカロイドのペレチエリンで薬用としても古くから活用され、幹や枝、根っこの皮を使い、条虫駆除薬として服用されます。
果実の皮は、下痢や下血(お尻から血が出る)に効果があるとされます。
ザクロの歴史
旧約聖書には、ザクロに関する記述があることから、ごく早い時代に神聖な植物としてもみなされていたことがわかります。
ソロモン王(古代ユダヤの王)の寺院の壁柱に、格子細工のデザインとしてザクロが使われています。
キリスト教図像学では、ザクロはエデンの園の「生命の木」と考えられ、初期のキリスト教徒の美術の中では、永遠の生命のシンボルとなりました。
キリスト教的な世界観では、ザクロは「希望の象徴」でした。
ギリシャやローマの神話では、「地獄の果実」と考えられていましたが、やがてキリスト教化することによって、希望を象徴するものに変わっていきました。
古代メソポタミアでは、聖樹として考えられ、豊穣と水の女神アナヒータ(Anahita)の象徴として聖視されました。
ザクロは種子がたくさんあるため、多産のシンボルとしても扱われ、トルコでは花嫁が熟したザクロの実を地面に投げて、こぼれた種子の数が彼女が産む子供の数を示すという風習がありました。
オリエント社会では多産や豊穣の象徴としてザクロが神聖化され、伝説によるとザクロ模様がさまざまな建築デザインや染織模様に用いられたとされますが、現存するものは非常に少ないです。
トルコのイスタンブールにあるトプカピ宮殿博物館には、オリエント社会の貴重な品々が収蔵されていますが、スルタン(国王や皇帝)たちが着た衣装にはザクロ模様が数多く使用されています。
例えば、オスマン帝国の第13代皇帝(スルタン)であったメフメト三世(1566年~1603年)の礼服には、ザクロ模様が織り出されています。
ヨーロッパのデザインにおけるザクロ
11世紀のヨーロッパでは、イスラム教徒の支配下にあったパレスチナおよび聖都エルサレムの解放を目的として、13世紀末までに前後8回にわたり、十字軍が組織されました。
十字軍の遠征が、オリエント社会の文化や芸術をヨーロッパにもたらすのにも貢献し、オリエントで神聖化されたザクロ模様もヨーロッパ社会に導入されました。
15世紀のイタリア・ルネッサンス期、絹織物のベルベットで作られたザクロ模様が流行しました。
ルネッサンス絵画の巨匠、アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo 1429年〜1498年)の『若い女性の肖像』は、当時の上流社会の娘の肖像を描いた名作ですが、大胆なザクロ模様が金糸で伸びやかに織り出されています。
ジョヴァンニ・ベルリーニ(1430年〜1516年)の名作『総督レオナルド・ロレダンの肖像』においても、総督の衣装に大柄のザクロ模様が織り出されています。
ザクロ模様の衣装は、ルネッサンス期のイタリア社会において、流行していた柄であったことがよくわかります。
19世紀後半にアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)を主導したウィリアム・モリス(1834年〜1896年)は、「ぶどう」や「りんご」などの果物をモチーフとした壁紙を作っていますが、ザクロ模様の作品も作っています。
モリスの作品におけるザクロは、従来の呪術的、象徴的、様式的なザクロの形態から脱し、近代的で写実的な形で表現されています。
日本のデザインにおけるザクロ
日本において、ザクロをめぐる有名な伝説、「鬼子母神伝説」があります。
鬼子母神(きしもじん)には、1000人に子供がいましたが、性質が邪悪で常に他人の子供を殺して食べていたため、仏が鬼子母神が溺愛する末子(最後に生まれた子)を隠して、いさめたといいます。
仏は今後他人の子供を食べたくなったら、人肉にも似たザクロの実を食べよと戒め、不殺を誓わせたという話から、鬼子母神像は、右手にザクロを持つようになったという伝説です。
ただ、日本においてもザクロは子福と豊穣を意味する吉祥果とされていたことから、鬼子母神が右手にもつザクロは、子福や豊穣の願いを込められたものと考えられています。
ザクロが伝来した時期は平安時代にとされ、模様としては中国の宋、元の絵画の影響を受け、使用されてきました。
染色模様としては、江戸時代に作られた小袖にもザクロがデザインされたものがありますが、鬼子母神の伝説もあってか、桃や橘などの果実のように様式化されることはなく、あまり用いられませんでした。
【参考文献】『月刊染織α1986年3月No.60』