デザインにおけるザクロ。ザクロの歴史について


ザクロPomegranate(学名Punica granatum)は、インド北部からイラン、アフガニスタン、パキスタンなどのレバント(東部地中海沿岸地方)あたりを原産地とする説があり、有史以前から栽培されていたとも考えられています。

生のまま果実が食用として愛好されたり、未熟な果実の果皮は赤い染料の原料となり、モロッコでは革をなめして赤く染めるために使用されてきました。

ザクロの主成分はアルカロイドのペレチエリンで薬用としても古くから活用され、幹や枝、根っこの皮を使い、条虫じょうちゅう駆除薬として服用されます。

果実の皮は、下痢や下血げけつ(お尻から血が出る)に効果があるとされます。

Pomegranate 2

ザクロ,Flanoz, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons,Link

ザクロの歴史

旧約聖書には、ザクロに関する記述があることから、ごく早い時代に神聖な植物としてもみなされていたことがわかります。

ソロモン王(古代ユダヤの王)の寺院の壁柱かべばしらに、格子細工のデザインとしてザクロが使われています。

キリスト教図像学ずぞうがくでは、ザクロはエデンの園の「生命の木」と考えられ、初期のキリスト教徒の美術の中では、永遠の生命のシンボルとなりました。

キリスト教的な世界観では、ザクロは「希望の象徴」でした。

ギリシャやローマの神話では、「地獄の果実」と考えれていましたが、やがてキリスト教化することによって、希望を象徴するものに変わっていきました。

古代メソポタミアでは、聖樹として考えられ、豊穣ほうじょうと水の女神アナヒータ(Anahita)の象徴として聖視されました。

ザクロは種子がたくさんあるため、多産のシンボルとしても扱われ、トルコでは花嫁が熟したザクロの実を地面に投げて、こぼれた種子の数が彼女が産む子供の数を示すという風習がありました。

オリエント社会では多産や豊穣ほうじょうの象徴としてザクロが神聖化され、伝説によるとザクロ模様がさまざまな建築デザインや染織模様に用いられたとされますが、現存するものは非常に少ないです。

トルコのイスタンブールにあるトプカピ宮殿博物館には、オリエント社会の貴重な品々が収蔵されていますが、スルタン(国王や皇帝)たちが着た衣装にはザクロ模様が数多く使用されています。

例えば、オスマン帝国の第13代皇帝(スルタン)であったメフメト三世(1566年~1603年)の礼服には、ザクロ模様が織り出されています。

ヨーロッパのデザインにおけるザクロ

11世紀のヨーロッパでは、イスラム教徒の支配下にあったパレスチナおよび聖都エルサレムの解放を目的として、13世紀末までに前後8回にわたり、十字軍が組織されました。

十字軍の遠征が、オリエント社会の文化や芸術をヨーロッパにもたらすのにも貢献し、オリエントで神聖化されたザクロ模様もヨーロッパ社会に導入されました。

15世紀のイタリア・ルネッサンス期、絹織物のベルベットで作られたザクロ模様が流行しました。

ルネッサンス絵画の巨匠、アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo 1429年〜1498年)の『若い女性の肖像』は、当時の上流社会の娘の肖像を描いた名作ですが、大胆なザクロ模様が金糸で伸びやかに織り出されています。

ポッライオーロ,ザクロ柄が描かれた衣服『若い女性の肖像』,Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of a Young Lady - Gemäldegalerie Berlin - Google Art Project

ポッライオーロ,ザクロ柄が描かれた衣服『若い女性の肖像』,Piero del Pollaiuolo, Public domain, via Wikimedia Commons,Link

ジョヴァンニ・ベルリーニGiovanni Bellini(1430年〜1516年)の名作『総督そうとくレオナルド・ロレダンの肖像』においても、総督の衣装に大柄のザクロ模様が織り出されています。

ジョヴァンニ・ベルリーニ『総督レオナルド・ロレダンの肖像』,Giovanni Bellini, portrait of Doge Leonardo Loredan

ジョヴァンニ・ベルリーニ『総督レオナルド・ロレダンの肖像』,Giovanni Bellini, Public domain, via Wikimedia Commons,Link

ザクロ模様の衣装は、ルネッサンス期のイタリア社会において、流行していた柄であったことがよくわかります。

19世紀後半にアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)を主導したウィリアム・モリスWilliam Morris(1834年〜1896年)は、「ぶどう」や「りんご」などの果物をモチーフとした壁紙を作っていますが、ザクロ模様の作品も作っています。

ザクロ柄のデザイン,ウィリアム・モリス,William Morris(Pomegranate)Fruit or Pomegranate MET DP109416

ザクロ柄のデザイン,ウィリアム・モリス,William Morris, CC0, via Wikimedia Commons,Link

モリスの作品におけるザクロは、従来の呪術的、象徴的、様式的なザクロの形態から脱し、近代的で写実的な形で表現されています。

日本のデザインにおけるザクロ

日本において、ザクロをめぐる有名な伝説、「鬼子母神きしぼじん伝説」があります。

鬼子母神きしぼじん(きしもじん)には、1000人に子供がいましたが、性質が邪悪で常に他人の子供を殺して食べていたため、ほとけ鬼子母神きしぼじんが溺愛する末子まっし(最後に生まれた子)を隠して、いさめたといいます。

ほとけは今後他人の子供を食べたくなったら、人肉にも似たザクロの実を食べよといましめ、不殺を誓わせたという話から、鬼子母神像きしぼじんぞうは、右手にザクロを持つようになったという伝説です。

鬼子母神像(きしもじん/きしもしん),大分県中津市大法寺,Kishimonjin Nakatsu

鬼子母神像(きしもじん/きしもしん),大分県中津市大法寺,Wolfgang Michel (Fukuoka), CC0, via Wikimedia Commons,Link

ただ、日本においてもザクロは子福こぶく豊穣ほうじょうを意味する吉祥果きちじょうかとされていたことから、鬼子母神きしぼじんが右手にもつザクロは、子福こぶく豊穣ほうじょうの願いを込められたものと考えられています。

ザクロが伝来した時期は平安時代にとされ、模様としては中国のそうげんの絵画の影響を受け、使用されてきました。

染色模様としては、江戸時代に作られた小袖にもザクロがデザインされたものがありますが、鬼子母神きしぼじんの伝説もあってか、桃やたちばななどの果実のように様式化されることはなく、あまり用いられませんでした。

【参考文献】『月刊染織α1986年3月No.60』


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