浴衣という言葉は、語源的には湯帷子に由来しています。
目次
浴衣(ゆかた)とは?
浴衣の起源は、平安時代の貴族や僧侶が入浴する際に着用した「湯帷子」にあると考えられます。
仏教が日本に普及するとともに、仏教の作法として、からだを水で洗って浄めること沐浴の習慣が広まり、寺院に隣接する施設として浴堂が建てられ、人々が沐浴して身を清めました。
沐浴の際には、仏教の信徒が守るべき行動規範である戒律では肌を見せてはいけないことになっており、人々は単衣の着物を着用して入浴していました。
公卿(朝廷に仕える高官の総称)の日記などによると、明衣、今衣、湯巻などと書かれ、色も柄もない白い麻素材の衣だったようです。
当時、一般庶民は現在のような湯船に浸かる習慣はなく、川などで行水することが多かったようです。
風呂の語源は、「室」からきており、風呂といっても蒸し風呂で、銭湯のようなものもなかったのです。
お湯を沸かして立てた湯気を、すのこを床にひいた密室に湯気を入れて、そこに入って汗をかいたら、汗をお湯で流すような形だったようです。
この蒸し風呂は、元禄時代(1688年〜1704年)頃まで続いています。
浴衣が普及した歴史
平安時代から鎌倉時代初期にかけて、身にまとう湯帷子から、下半身だけを包む形に変化します。
男子の場合は、入浴専用のふんどしが使用され、女子は湯巻と言って、白布を腰に巻いて入浴しました。
室町時代末期から江戸時代にかけて、入浴後に体をふいたり、汗をふき取るための衣類が生まれ、身拭や御身拭といわれました。
湯帷子の用途が変化して、身拭となったともいえ、身拭が発展した衣類形態が浴衣といえます。
江戸時代中期(18世紀初頭)になって、庶民の間でも湯船に浸かる湯浴が一般的になり、湯上がりの汗や水滴取りや湯上がり直後の衣類として、単衣の浴衣が着られるようになりました。
綿の栽培が盛んになり、庶民の間でも広く使用されるようになったことが、木綿で作られた浴衣が普及していった大きな要因となりました。
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江戸時代後期に出版された三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の百科事典である『守貞謾稿(巻之十九)』(天保8年(1837年)に記録を始め、嘉永6年(1853年)成立)には、「近年浴後ノミニ非ズ、卑賤ノ者ハ単衣及帷子ニ代へ用フ(近年は、浴後だけではなく、身分や地位が低い者達は、単衣の着物や帷子(夏に着るひとえの着物)の代わりに着用する)」とあり、幕末から湯上がりだけなく、普段着にも使用され始めていたことがわかります。
一般的に外着としても普及していくのは、この頃から後になります。
江戸っ子と浴衣
浴衣は夏に着る湯上がり着として、江戸で発達しました。
江戸下町では、井戸を掘るには許可が必要で、大金が必要だったため、下町の大商店といえども、自分の家に風呂がある家はほとんどなかったようです。
自家用の風呂が普及しなかった理由としては、その他にも火災が多く、火元という疑いをかけられたくなかったという点や、大勢の使用人たちが銭湯に行っているのに、雇い人だけがゆったりとしたと自家用の風呂に入っていては申し訳ないというような江戸っ子の心情もあったと考えられます。
自家用の風呂を持つようになったのは、明治30年代ごろで、「江戸っ子」はほとんど銭湯へ行っていたのです。
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江戸の銭湯へ出かける習慣が、湯上がりに着る浴衣が発達した理由の一つに挙げられます。
「いき」に生きる江戸っ子としては、湯上がりとあっても身なりに気を配り、行きと帰り道の人の目も意識していたことが考えられます。
銭湯の風習が、夏に行われた夏芝居や縁日、夕涼みや花火など、夕方から夜にかけての江戸の民俗を発展させることになったともいえるでしょう。
浴衣と長板中型
長板中形は、小紋や形友禅などと同じく、日本に古くからある型染めの一種ですが、浴衣の染めに活用されてきました。
長板中形の技術は、江戸時代中頃から浴衣地の型付け・藍染に多用されたため、中型といえば浴衣の代名詞のようになったのです。
長板中形は、生地の表裏を糊で防染した後に、藍で染めるため、白場と藍で染まった部分のコントラスト(対比)が鮮やかです。
藍色一色のきっぱりした美しさは江戸っ子の好みに合う「粋」なものとして人々に愛されたのです。
【参考文献】『埼玉県民俗工芸調査報告書 第1集 長板中型』