大和絣は、木綿の白絣としてその名を知られ、古くは「西の大和絣、東の中野絣(館林絣)」と言われていたほどでした。
室町後期の大永(1521年〜1528)から天文(1532年〜1555年)頃には、すでに日本での木綿栽培が広がってきていたとされており、大和地方(奈良県)においても古くから木綿の織物が織られていた考えられます。
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宝暦年間(1751年〜1764年)に、現在の奈良県御所市を中心として越後上布を木綿布に変えて織り出されたのが、大和絣の起源とされます。
天保年間(1830年〜1843年)に、絹物の禁止令が出されると、大和木綿の需要は一段と高くなり、関東方面にまで販路が広がりました。
大和絣(やまとがすり)の特徴
大和絣が人気を得たのは、絣模様の斬新さと染色の精巧さにありました。
御所町の提灯業者であった峠山佐平が、提灯の文字が伸縮するときの形状からアイデアを得て、絣模様を考案しました。
これを染色業者の扇屋・和田平兵衛が、文政5年(1822年)に絵絣として完成させました。
この絣は、「扇屋絣」や「工夫絣」とも呼ばれていました。
大和絣は、白絣(白地に藍や黒で絣模様を表したもの)を特徴として、模様(文様)は十字、井桁、亀甲など50種類ほどあったようです。
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近江から板締め絣の技法を取り入れ、次第に盛んに織られるようになります。
明治20年代(1887年〜)には、織り機もチョンコ織と呼ばれる足踏み機が登場し、糸も手紡ぎから経糸・緯糸ともに紡績糸が用いられるようになります。
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大和絣は幕末から昭和初めにかけて広く流通していましたが、だんだんと粗悪品も出回るようになり、その他の伝統的な織物と同様に、第二次世界大戦やその他の外部要因からも影響を受けます。
大和絣においては、その技術が一時、完全に途絶えてしまったのです。