大青(漢名:大藍・菘藍)は、アブラナ科に属し、中国が原産地とされ、享保年間(1716年〜1735年)に日本に渡来したとされます。
ヨーロッパからシベリアのバイカル湖付近にまで分布するといわれるアブラナ科の越年草である細葉大青(学名:Isatis tinctoria)は、英名ではWoad(ウォード)と言われます。
同じ藍の色素を持つ植物でも、蓼藍やインド藍や琉球藍などとは品種が違い、ウォードはアブラナ(菜種菜)によく似た大きな草です。
古代エジプトで行われていた藍染の原料となったのは、アブラナ科のウォードだと考えられています。
目次
染色・藍染におけるウォード(Woad)
細葉大青(ホソバタイセイ),Woad(ウォード)Isatis tinctoria,H. Zell, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons,Link
アブラナ科のウォードは、ヨーロッパ地域から北アフリカ、中国、日本まで世界中で分布していました。
ウォードは二年草で、1年目はロゼット状(放射線状に広がる)に青緑の葉をつけ、その外観はほうれん草にも似ています
染色に用いるのは藍色素が多く含まれる1年目の葉ですが、花茎を生長させる翌年の4月ごろになっても葉中にはいくらかの藍色素は残っています。
土壌は一般的には石灰質を好むとされますが、古くからヨーロッパにおいてもさまざまな変種が各地で生育されていたと考えられ、各地でさまざまな呼び名がつけられていました。
栽培したウォードの葉を染料にする製造方法としては、インド藍などのように水に葉を浸けて色素を抽出するのではなく、日本の蒅製造に近い形が取られていました。
ウォード藍の製法方法
ウォード藍の製造の流れに関しては、地域や時代によって違いがあったようですが、基本的には下記のような流れだったと考えられます。
3月ごろに種子を取り、よく耕された畑にそれをまき、15cm〜20cmほどに育ったところで葉を刈り取ります。
葉に湿り気があるうちに、大きな石輪(輪っか状の大きな石)ですり潰し、それをボール状(ウォードボール)にこねて乾燥、発酵させます。
次にそれを細かく砕いて、粗目の篩で丁寧に粉状にします。
その粉を約15cm程度に床に積み上げ、その上から水をかけてくまなく湿るまでかき混ぜます。
水をかけることによって再度発酵を促し、一つの山に積み上げることで自然に温度が上がっていきます。
時間が経ってから空気を入れるために山を崩して広げ、しばしば水をかけて、再び発酵させるためにもとのような山に積み上げます。
発酵が止むまでこれを繰り返して、そのあとは全体が乾燥するまで山を崩した状態でかき混ぜます。
こうして発酵を経て乾燥させられたものが篩にかけられ、樽に詰められて出荷されたようです。
日本の蒅の製造と似ており、余分な有機物を分解してインディゴの純度を上げるためだったと考えられます。
ウォードの場合、ボール状にこねて丸のまま発酵させるという特徴的な工程がありますが、強い力でボール状ににぎることで、中の空気が締め出され、4数間も経つと乾燥したボールは、木の玉と同じようなほど堅くなります。
これによって、嫌気的な発酵を促す効果があったのではないかとも考えられます。
ヨーロッパにおけるウォード
ウォード産業が発展した背景のひとつに、中世のヨーロッパの衣服の染色が宗教的な影響もあり、青と黒が主だった点が挙げられます。
ヨーロッパ全域では、古くからウォードを使用した藍染が行われ、シベリア一帯でも使用されていたとされます。
ヨーロッパのウォードは、いつ頃から産業として生産され始めたのかははっきりとしていませんが、13世紀初め頃になるとウォードに関する記述が多くみられるようになります。
そのため、ウォードの加工農産物が本格的な市場性を持ち始めたのは、11〜12世紀ごろではないかと考えられます。
イギリスの11世紀の文章には、早くもウォードが産業化し始めていたのではと推測させる記述がみられ、ドイツではカール大帝が関係した795年の文書の中に、計画的耕作の証拠が見出されているようです。
13世紀のイギリスでは、国内産のウォードではすでに需要が間に合わなくなり他国から輸入していたようです。
しばしばイギリスでは、ウォードがボール状のまま(green woadと呼ばれた)他国から運ばれてくることが多かったようです。
その後の寝かせ(couching)はイギリスで行われたわけですが、これは輸入ウォードの品質に対するある種の疑いがあったことがその理由の一つとして挙げられます。
すなわち「混ぜ物」に対しての警戒で、ボールの状態でなら雑草の混入の程度などが見分けられますが、寝かせを経た後の粒子状の状態では、品質に良し悪しがわかりにくかった点が挙げられます。
インド藍の流入によるウォード生産の衰退
15世紀末に喜望峰航路が開発されたのち、17世紀ごろから本格的にインドや西カリブ産の藍が大量に輸入されるようになったことで、その染色性の良いインド藍に押される形で、ヨーロッパにおけるウォードが衰退していきます。
しかし、産業としてのウォードが次第に衰退していきながらもその終わりを迎えるまでは約300年の年月を要しています。
19世紀初頭のナポレオン1世の統治下、イギリス、フランス両国の政治的緊張していきましたが、イギリスが制海権を強く保持していたため、フランスのインド藍の入手が難しくなったことからフランスを中心にウォード産業が再興する時代がありました。
イギリスにおいては、ウォードの製造を最後まで行っていた生産者がその操業を停止したのが、1932年との報告があります。
その後化学染料の普及により、かつてはヨーロッパの生活文化に深く根ざしていたウォードの記憶は今日のヨーロッパの人々の間ではほとんど忘れ去られたものとなってしまったのです。
日本におけるアブラナ科の植物を用いた藍染
千島から樺太、そして北海道に住んでいたアイヌ人たちの藍染も、細葉大青が用いられていました。
細葉大青が用いられていたのは、シベリアからの文化の影響だと考えられています。
アイヌの大青のことは、蝦夷大青と呼ばれ、ヨーロッパのウォードや中国産の大青の一変種とされていましたが、素人が見たところでは、いずれもアブラナ(菜種菜)に似た草で、ほとんど区別がつかないほどです。
大青は、菘藍とも呼ばれ、菘とは唐菜(アブラナの一種)のことを指します。
【参考文献】
- 『月刊染織α1990年12月No.117』
- 『月刊染織α1996年4月No.181』