長野県では、古くから紬織物が盛んに織られてきました。
上田紬や、飯田紬、山繭紬など歴史的にも古く、その名が広く知られていますが、これらを総称して信州紬と呼んでいます。
上田紬(うえだつむぎ)とは?
上田紬とは、上田地域で織られてきた紬織物で、特に白紬が代表的なものとされていました。
慶長7年(1602年)、徳川家康が江戸に幕府を開く前年に、上田から常陸(茨城県)の結城へ、紬の技術指導に織工を送ったという文献が残されています。
江戸時代初期の寛文年間に、江戸で発行された書物に「上田島」の名前が登場していますが、これが上田紬の縞織物を意味しているのかは定かではありませんが、この地方でも縞織物が盛んに織られていたと考えられます。
上田紬がもっとも盛んに織られたのは、江戸時代後期の文化・文政の頃だとされ、江戸のみならず、京都や大阪まで販路が拡大されていたようです。
この頃の風俗が表現されている浮世絵や洒落本にも上田紬が描かれており、武士階級から下町の庶民まで広い層に親しまれていたことがわかります。
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明治時代以降、量産される機械織りによって、上田紬の生産量が減り、第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けましたが、昭和30年代(1955年〜)から再び生産されるようになります。
上田紬の柄としては、伝統的な縞や格子が有名ですが、絣も織られていました。
上田縞(うえだじま)
上田縞は、上田紬とも「上田」とも呼ばれていました。
元々は真綿からの手つむぎ糸が用いられましたが、のちには経糸、緯糸ともに本絹糸が用いられました。
これを本上田と呼び、玉糸を用いたものは、節上田と呼ばれました。
縞柄のほとんどは、紺色、または茶色の経縞でした。
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上田紬の技法
上田紬を織る際の緯糸は、真綿から作った手紡ぎ糸を使用します。
経糸は、生糸か玉糸を引きそろえて撚りをかけ、精錬します。
精錬は、撚った糸を「練袋」に入れて、藁灰の灰汁や石けんの入った釜に入れて40分〜50分ほど煮沸します。
絣の場合は、長く伸ばした経糸と緯糸の束に、種糸を当てがい、種糸をつけた印どおりに墨付けをします。
絣括りは、糸束に墨付けした部分を木綿糸で括り、染液が浸透しないようにします。
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染色は、昔ながらの藍染や草木染め、合成染料とさまざま使用され、製織は、高機による手織りと、機械織りが行われています。
【参考文献】荒木健也(著)『日本の染織品 歴史から技法まで』