ファッション・服飾におけるシースルー(see-through)


ファッション・服飾におけるシースルー(see-through)とは、「see(見える)」と「through(通り抜けて・貫いて)」から成る語で、1945年に文献に初出しています。

シースルー(see-through)は、「透けて見えること」や、「透けて見える衣服やその装い」などを表します。

ファッション・服飾におけるシースルー(see-through)

フランス革命の混乱が一時期おさまった18世紀末から19世紀初頭にかけて、束の間の楽しみを求める風潮が広がりました。

その現れの一つとして、女性は身体にピッタリと合った薄い肌着の上に、透き通るような麻織物や薄い綿織物(モスリン)などを用いたドレスをよく着用しました。

透けて見える衣服やその装い(シースルー)は、それまでの王侯貴族などの特権階級の装飾過剰の装いに対する反動や虚飾をしりぞけるという心情から生まれたとされます。

また、シースルー(see-through)の装いは古代ローマやギリシャのような簡素さをお手本としたとも言われます。

ショール(肩掛け)が流行したのも、シースルー(see-through)の薄着が関係しているとされます。

19世紀初頭のパリでインフルエンザが流行し、多くの女性が肺炎で命を落としましたが、当時は「モスリン病」とも言われたほど、薄着が流行していたのです。

シースルー(see-through)が広まった要因であるインドの綿織物とイギリスの産業革命

ヨーロッパにおいては、麻のような、植物性繊維もなくはありませんでしたが、綿は特に、ヨーロッパのような寒い地域では栽培できなかったので、ヨーロッパ人には馴染みがなかったのです。

毛糸を編んだり織ったりして衣類をつくったので、毛織物が慣れ親しんだ衣類だったのです。

インドにおいて生産された平織りの綿織物(キャリコ)が、17世紀終わり頃からヨーロッパに伝わり、人々を魅了しました。

インドから質の高い綿織物が伝わってきたのが、ヨーロッパ人にとっては大きな出来事だったのです。角山栄(著)『産業革命の偶像』には、以下のような記述があります。

イギリスの東インド会社がインドから輸入した美しくて、はだざわりのよいキャリコはヨーロッパ人を魅了した。女性はたちまちドレスにもってこいだとしてざわついた。部屋のカーテンにもうってつけだったし、白い綿布はベットのシーツやカバーにもなるし、肌着にしてもよかった。その上、インドの低賃金でできたから、値段も安く、大衆の間にしだいに広がり始めた。角山栄(著)『産業革命の偶像』

イギリスでは、インドで生産される「キャリコ」や「モスリン」などの輸出織物を珍重してきましたが、産業革命の成果である紡績ぼうせき工業(繊維から糸を紡ぐ工業)の発展によって、自国でも似たものを大量に生産するようになります。

薄地の綿織物がヨーロッパにおいて広まったことが、透けて見える衣服やその装い(シースルー)が流行することにつながっているのです。

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