伝説の綿織物、ダッカ・モスリン


今では伝説として語り継がれていますが、現在のバングラデシュの首都ダッカでは、高度な技術によってつくられたダッカ・モスリンという伝説の綿織物がありました。

現存するものは、ロンドンのヴィクトリア・アルバート博物館で保存されているようです。

バングラディッシュは、インドから独立した国なので、イギリスが植民地統治をしている以前は、インドの綿業の中心地であり、その生産量や染色技術においてももっとも世界で進んでいたと言われます。

当時はもちろん機械がなく手工業だったので、糸は手紡てつむぎされていましたが、その糸が非常に細く、それを使用して非常に薄い綿織物を織っていました。

インドで手紡てつむぎをイメージすると、ガンジーが糸車を回している有名な写真を思い起こしますが、当時細い糸を紡ぐときも、早朝に霧の立ち込める川のほとりで糸車を回し、指先に油をつけながら紡いだといわれています。

早朝の霧、そして川の近くで湿気の多い場所が、糸を紡ぐのに適していたのです。

Gandhi spinning

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その生地の薄さについて、さまざまな逸話が残っているようで、インドの伝統的な民族衣装であるサリーを丸めると、手のひらにおさまってしまうほど小さくまとまると言われたり、王女が月夜にベランダに出ているのを王様が部屋から見たときに裸に見え、王女を叱ったという話もあったようです。

そんな伝説的な織物ですが、イギリスの植民地化によってはかなく散ってしまった歴史があります。

南アジアにおける綿布生産の歴史

インドを含む南アジアには、綿布生産の長い歴史があります。

ヒマラヤを源流とし、インド西部を南下してインド洋に注ぐ大河であるインダス川渓谷では、紀元前3200年頃に最初の綿が栽培されていたことが指摘されています。

パキスタンのシンド州にあるインダス文明最大級の都市遺跡であるモヘンジョダロで発掘された布片は、紀元前2600年〜1900年頃にgossypi-um arboreumに近い品種の綿を用いた布が織られていた可能性があるとされています。

紀元前3200年から紀元後1000年までの間に、綿の栽培、および綿布生産は、各地域との交易を通じて、西は西アジアを経由してヨーロッパやアフリカ大陸まで、東は中国へと広まっていきました。

綿織物がヨーロッパに与えた衝撃

ヨーロッパには、イギリスを代表とする羊毛工業で栄えた国が数多くあります。

「羊が人を食う」といったエンクロージャー運動が起こったことを、歴史の教科書で学んだのを覚えている方もいるかと思います。

毛糸を編んだり織ったりして衣類をつくったので、毛織物がヨーロッパ人にとっては慣れ親しんだ衣類だったのです。

麻のような植物性繊維はありましたが、ヨーロッパのような寒い地域では綿は特に栽培しづらかったので、ヨーロッパ人には綿素材のものは馴染みがなかったのです。

だからこそ、インドから質の高い綿織物が伝わってきたのが、ヨーロッパ人にとっては大きな出来事だったのです。『産業革命の偶像 角山 栄著』には、以下のような記述があります。

イギリスの東インド会社がインドから輸入した美しくて、はだざわりのよいキャリコはヨーロッパ人を魅了した。女性はたちまちドレスにもってこいだとしてざわついた。部屋のカーテンにもうってつけだったし、白い綿布はベットのシーツやカバーにもなるし、肌着にしてもよかった。その上、インドの低賃金でできたから、値段も安く、大衆の間にしだいに広がり始めた。『産業革命の偶像 角山 栄著

綿織物の幅広い用途と使いやすさに、当時の人々はさぞかし驚いていたのでしょう。

キャリコとは、日本でいう金巾かなきんに近く、平織りで織られ、軽くてしなやかさがあるのが特徴的な綿織物でした。

関連記事:ヨーロッパ人を魅了したインドの綿織物であるキャリコと、産業革命の深い繋がり

奴隷を手に入れるために綿織物を売る

瞬く間にヨーロッパの大衆に広がっていた綿織物でしたが、業者にとっては大打撃。その結果、イギリスでは東インド会社がもってくる綿織物の使用が禁止されることになりました。

しかし、イギリスでは綿織物の国内輸入は禁止されていたものの、それを横流しして他国に売ることはしていました。

その当時、奴隷貿易が盛んに行われていたので、綿織物とアフリカ大陸の人々が「交換」されていたのです。

タバコ、銃、砂糖、酒、そして綿布をアフリカへ送り奴隷を手に入れ、その奴隷を西インド諸島の植民地に労働者として送る。そして物資がイギリスにもどってくる。

三角貿易と言われたこの物資の流れに、インドの綿織物も含まれていたのです。

イギリスの産業革命が綿工業から始まった理由

イギリスの産業革命は、綿工業から始まったといわれます。

産業革命の始まりは、「イギリスがもともと綿工業が盛んで、機械が導入されたことによって生産性が急上昇した」というような簡単な話ではありません。

背景にはインドの綿織物の貿易がきっかけとなり、植民地での綿花栽培、そして国内需要に答えるための結果としての大きな技術革新があったのです。

ダッカ・モスリン、インド綿織物の悲しい歴史

世界最高峰の綿市場があったインドに入り込んだイギリスでしたが、到底その技術や品質において、インド市場に打ち勝つことはできません。

イギリスの綿工業が始まった、18世紀初め頃、その最大の競合はいわずもがなインドの綿工業だったのです。

インド市場に入り込むためにもイギリスがしたのは、インドからの輸入阻止や高い関税を課すこと。そして、インド人職人の技術をこの世から奪い去ることでした。

ダッカ・モスリン、綿織物の歴史のなかでは、多くの血が流されたのです。

手工業の歴史を辿るとその当時の出来事が見えてきます。ただ、そこに悲惨な事件が数多くあったということも、理解しておかないといけないと感じます。

参照:伝説の薄布「ダッカの霧」

【参考文献】

  1. 「伝説の薄布「ダッカの霧」」
  2. 角山栄(著)『産業革命の偶像
  3. 小林和夫(著)『奴隷貿易をこえて


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