江戸時代における江戸と上方(京都・大阪)との風俗比較。いき(粋)とはんなりについて


上方かみかたという言葉は、戦国時代頃には、九州方面から京都周辺を指す言葉だったようですが、江戸時代にはもっぱら江戸に対して「文化圏としての近畿圏(京都・大阪・奈良など)」を指すものとなります。

江戸と大阪、京都は当時から他の地域に比べると発展し、人が集まっていたため「三都」とも言われ、「上方かみかた」という言葉は大阪と京都の総称となっていました。

江戸と上方(京都・大阪)との風俗比較

江戸は、幕府をはじめ諸大名の屋敷が多く建っていたため、武士が多く集まり、人口も男子が多い状況でした。

これに対し、京都は宮廷と公家、および有力な商工業者が中心となる都市で、大阪は「天下の台所」として経済活動を行う商人によって形成されていた町という特徴がありました。

華麗な元禄風俗げんろくふうぞくは、西陣織にしじんおり友禅染めを主とする京都・大阪の手工業の成立によって生まれ、上方風俗が最も流行した時代とも言えます。

その後、江戸も次第に発展していき、文化文政の時代(1804年〜1830年)には町人文化が栄え、都市として成熟期となります。

江戸の風俗は、一般的には武家の影響下にあったため、禁欲的な意識が強かったことから、いわゆる「いき(粋)」と呼ばれる美学が生まれました。

江戸っ子といき(粋)

川越唐桟(かわごえとうざん)

川越唐桟(かわごえとうざん)

江戸では、多くの縞織物しまおりものが流行し、江戸の周辺にも縞織物の産地が多く生まれます。

江戸時代の日本人の美意識について書かれた古典的名著に、九鬼周造くきしゅうぞう(著)『いきの構造』がありますが、本書でもなぜ縞織物が江戸で流行ったのかが記されています。

九鬼周造くきしゅうぞうは、「いき」の芸術的表現として、「永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観性であり、模様としてしまが「いき」とみなされるのは決して偶然ではない」というように語っています。

着物の柄としての縦縞は、宝暦ほうれき(1751年〜1764年)ごろまでは横縞より少なかったようですが、明和めいわ(1764年〜1772年)ごろから縦縞が流行しはじめ、文化文政ぶんかぶんせいじだい期(1804年〜1830年ごろ)にはもっぱら縦縞が用いられるようになりました。

九鬼周造くきしゅうぞうは、「横縞より縦縞の方が「いき(粋)」であるといえ、縦縞は、文化文政の「いき(粋)」な趣味を表している」というように『いきの構造』で語っています。

また、九鬼周造くきしゅうぞうが「いき」の色彩を論じた部分では、「赤系統の温色よりも、青中心の冷色の方が「いき」であるといっても差し支えがなく、紺や藍は「いき(粋)」である」というように語っています。

白と藍染で染められた紺色の浴衣姿は、「いき(粋)」のシンボルともされていました。

上方のはんなり

江戸の「いき(粋)」に対して、上方は豊かな生産力の土台の上に文化が発展し、「はんなり」と呼ぶ「艶麗えんれいの美」が重視されました。

「はんなり」のシンボルとされたのは、多色に彩られた京友禅きょうゆうぜんの着物でした。

しかし、江戸幕府の権勢と威力による管理社会(奢侈禁止令しゃしきんしれいの発令など)によって、華やかな上方風俗も次第に江戸のような地味さに統一されていきます。

ただ、そのなかでも木綿の主産地が西日本だったこともあり、制約のなかでの工夫から庶民の衣服は木綿のかすりによって一応の美しさを示していました。

江戸と上方の風俗について書かれた本

江戸と上方(京都・大阪)の風俗が書かれた本も、多く書かれました。

例えば、江戸時代後期の儒学者・経世家である海保青陵かいほせいりょうによって、上方と江戸の風俗を対比した『稽古談けいこだん』が書かれています。

畑銀鶏はたぎんけい(1790年〜1870年)の著書である『街廼噂ちまたのうわさ』には、大阪の風俗が図入りで記されたり、江戸時代後期に出版された『守貞謾稿もりさだまんこう』(天保8年(1837年)に記録を始め、嘉永6年(1853年)成立)には、著者が三都(京都・大阪・江戸)で生活していたため、三都の風俗や事物を細かに比較し説明した一種の百科事典となっています。

【参考文献】九鬼周造(著)『いきの構造


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