インド藍(学名 Indigofera suffruticosa)は、熱帯地方に分布するマメ科コマツナギ属の藍色素を持つ植物から抽出した染料の名前でもあり、植物の名称でもあります。
日本の本土で古くから栽培されてきたタデアイ(草の藍)に対して、木藍と呼ばれたりもしました。
目次
染色・藍染におけるインド藍
インド藍の種類
インド藍とされるものは、マメ科のコマツナギ属です。
マメ科の植物の藍は、日本の本土で古くから栽培されてきたタデアイ(草の藍)に対して、木藍と呼ばれたりもしました。
マメ科のコマツナギ属は、Indigofera(インディゴを含む意味)という属名が与えられており、藍の色素を含む植物は、世界的にみてもマメ科のコマツナギ属が種数も多く、量的にも地域的にも最も世界中で栽培されてきた品種といえます。
熱帯地域での栽培に適した品種であり、インドや中東、アフリカ、マダガスカル、インドシナ、マレーシア、中南米など、広く利用されてきました。
タイワンコマツナギ(台湾駒繋)(学名Indigofera tinctoria)は、インドからシンドシナ、台湾や中国南部などに分布し、ポルトガル人によって発見されました。
インド藍は主に、タイワンコマツナギ(学名Indigofera tinctoria)を表すとされます。
ナンバンコマツナギ(南蛮駒繋)(学名Indigofera suffruticosa)は、フィリピンやマレーシア、中国南部などで盛んに栽培され、発酵させてから藍錠に加工したものが日本にも明治時代の中頃から輸入されるようになりました。
インド藍の染色方法
藍は、そのままの状態では染めることができませんので、発酵させて色素を水に可溶化させて(還元させる)から染色します。
インド藍も、発酵建てして染めるのが本来のやり方ですが、日本においては気候的に適していません。
熱帯地方の高い気温の状態では、植物が本来持っている微生物が割と簡単に発酵することができるのです。
ただ、発酵を維持することは難しく、化学的な苛性ソーダのアルカリを利用したり、還元剤のハイドロサルファイトなどを使用する場合がほとんどです。
本来の自然界からとれる原料のみを使用していたインド藍の藍建てが、どのように行われていたのでしょうか。
藍の液はアルカリ性なので、水に木灰を混ぜて作る灰汁を使用するか、石灰を使用してアルカリ性の液を作ったことでしょう。
菌の栄養源となる糖分も必要ですので、もちろん加えていたでしょう。
藍建ての方法としては、日本では沖縄で行われている琉球藍(キツネノマゴ科イセハナビ属)のやり方と原理的には同じです。
沖縄では、糖分に水飴や泡盛を使用したりします。
インド藍で蒅(すくも)は作れる?
沖縄の琉球藍を除き、日本において藍染の原料といえば蓼藍の葉っぱを乾燥、発酵させてできた蒅です。
一方、インド藍と琉球藍の製造方法はほとんと同じで、たくさんの水に葉っぱを沈め、色素が抜けてきた段階で石灰を投入し、空気を入れながら撹拌して、沈殿して固まった染色に色素を使用します。
世界中に藍染の元になる葉があるので、それも蒅と同じような形で原料にできるか?という疑問が湧きます。
確かに、やろうと思えばインド藍や琉球藍でも蒅は作れるのでしょう。
ただ、インド藍や琉球藍などの場合の色素抽出の方法としては、蒅を作るより、水に浸して色素を抽出する「沈殿法」が適しているのです。
タデ藍は乾燥葉にすると、葉っぱに含まれるインジガンが、酵素の働きによってインジゴに変わります。
一方で、インド藍はタデ藍に比べて酵素が少ないようで、乾燥葉にしても葉に含まれるインジガンが、インジゴに自然と変わっていきにくいため、葉っぱを傷つける必要があります。
葉っぱが小さく、細やかな扱いをするは大変で、わざわざ傷つける必要があるのであれば、「沈殿法」によって色素を抽出する方が非常に楽なのです。
タデ藍の場合も葉っぱを傷つけた方が(刈り取り、葉と茎を選別する際に傷つく)早く乾燥し、天日の元でできるだけ素早く乾燥させたほうが、インジガンがしっかりとインジゴに変わります。
インド藍などが生産されていた暖かい地域で、蒅のような製造法が発達しなかったのは、そもそもの気候などの外部環境による影響が大きいのです。
インド藍の歴史
藍染の歴史は古く、古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。
インドでの歴史は古く、古代ローマ時代にはインドで商品化されたインド藍がエジプトのアレクサンドリアを経由してローマへ輸入されました。
アラビア商人によって、エジプトをはじめ地中海方面へと運ばれていましたが、ポルトガルのバスコダガマが南アフリカを周るインド洋航路を発見したことによって、インドにおけるインディゴの生産はいっそう盛んになったのです。
その後、イギリスの植民地支配によってインドで大量に産出されたインド藍は、コストが安く、染まりやすかったため、ヨーロッパの染色業者は脅威を感じていました。
ヨーロッパへ大量に運ばれたインド藍は、その染まりの良さからヨーロッパで栽培されていた藍色を染める植物であるウォード(大青)を市場から追い払い始めたのです。
関連記事:染色・藍染におけるウォード(Woad)。細葉大青(ほそばたいせい)を使用した藍染について
イギリスやフランスなどのウォードの販売業者からの抗議があり、インド藍に対して厳しい規制がかけられます。
1577年、ドイツの議会は、インディゴは有害で腐りやすい染料であるとして、法令で輸入禁止及び使用の禁止としました。フランスやドイツでも、同様の理由で禁止とされます。
植民地支配におけるインド藍の歴史
インドの藍栽培における歴史において、イギリス植民地支配によるプランテーション(大農園)があります。
インドのネパールとの国境近くのチャンパーランという土地では、19世紀にはイギリスの資本家が進出して土地を確保し、大規模なインド藍のプランテーション(大農園)をつくりました。
植民地支配における藍の生産には、悲しい歴史がありました。
以下、『ガンディー平和を紡ぐ人』からの引用です。
藍プランテーションには残酷な歴史がある。土地を買い取ったイギリス人の農園主は、ティンティア(二十分の三)制度というしくみの下で、農民に藍栽培を強制し、収穫物を安く買いたたき、労働を強制し、地代やその他の代金を支払わせた。
1828年にファリドプル県の司法長官は、農園主に射殺された農民の何人もの遺体を確認し、「イギリスに届けられた箱詰めの藍は、人々の血で必ず汚れている」と報告したほどである。
十九世紀末にドイツ製の化学染料が市場に出されると藍は売れなくなったが、農園主は他の作物への転換を許さず、農民から搾り取ることで自らの収入を補填しようとした。
第一次世界大戦中はドイツからの染料が入手できなくなったため、再びインドの藍への需要が高まり、農園主には好機となったが、戦時の物価高騰を前に、農民の暮らしは厳しさを増すばかりだった。
インド独立運動の指導者で「インド独立の父」とも言われるマハトマ・ガンディー(1869年〜1948年)は、1917年にガンディーがチャンパーランの地を訪問し、農民運動を引き起こします。
1947年8月15日、イギリスの植民地だったインド帝国が解体し、インドはイギリスから独立しましたが、植民地支配の歴史において、藍栽培だけでなく、さまざまな分野で悲惨な歴史があったのです。
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合成染料の発達によってインド藍の衰退
1880年にアニリン色素が合成されるようになってから、インド藍は徐々に市場から締め出されますが、第一次世界大戦の際に一時的に価格が高騰し、再び栽培の機運が高まりました。
その当時は、化学染料の大半がドイツにおいて製造されていたため、戦争によってドイツからの供給が絶たれたことが理由としてありました。
世界最大の需要を誇った染料とも言えるロッグウッドも、インド藍と同じような繁栄と衰退の歴史をたどっています。
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インド藍の栽培地は、インドとインドネシアのジャワが中心地でしたが、第二次世界大戦前後のインドの輸出は年間15〜25トンほどまでに減少し、現在ではほとんど栽培されていません。
【参考文献】竹中千春 (著)『ガンディー平和を紡ぐ人』