飯田紬(いいたつむぎ)とは?飯田紬の技法について


長野県では、古くからつむぎ織物が盛んに織られてきました。

飯田紬いいだつむぎ山繭紬やままゆつむぎ上田紬うえだつむぎなど歴史的にも古く、その名が広く知られていますが、これらを総称して信州紬しんしゅうつむぎと呼んでいます。

飯田紬(いいだつむぎ)とは

飯田紬いいだつむぎとは、明治維新前後(1866年〜1869年)に飯田地方で産したつむぎ織物のことです。

長野県を流れる天竜川の飯田地方(下伊那しもいな)では、古くから良質な生糸きいとが生産されたことで知られていました。

養蚕業ようさんぎょうが盛んだったため、比較的に恵まれた農家が多く、どの農家も自家まゆを用いて手織紬ておりつむぎを織っていたのです。

飯田地方の織物が市場に出だしたのは、江戸時代末期の文化・文政年間です。

飯田地方産の「富田絹とみたぎぬ」や「オコンド縮緬ちりめん」と呼ばれるものが、江戸や京都、大阪で販売され、人気を集めました。

富田絹(とみたぎぬ)

富田絹とみたぎぬは、喬木村かぎむら富田とみだという土地において、筒井キサノという女性が、自家製の手引糸てびきいと製織せいしょくした薄絹うすぎぬを作ったことに始まるとされています。

富田の絹を用いて、富田から織り出されたため、そのまま「富田絹とみたぎぬ」と呼ばれるようになりました。

オコンド縮緬

オコンド縮緬ちりめんは、「オコンド」という屋号の機屋はたやが開発した縮緬ちりめんがその名前の由来となっています。

この機屋はたやが開業する際に、この地に隠居した松岡城主であった松岡右近の名前にちなんで「ウコンドノ・・・・・」がなまったものといわれます。

富田絹とみたぎぬやオコンド縮緬ちりめんが織り始められ、その販路が広がっていくと、飯田地方の織物業が盛んになり、それが後の飯田紬を生産する基礎となっていたのです。

天保年間てんぽうねんかん(1831年〜1845年)には、それまでの居坐機いざりばたと呼ばれる最も原始的なはたから、高機たかはたに変わります。

明治20年(1887年)には、織り手がヒモを引くと(経糸の間に緯糸を通す道具、シャトルのこと) を弾き飛ばす飛杼装置とびひそうちがついている「バッタン」に変わり、そして大正年間には、力織機が導入されました。

飯田紬いいだつむぎは、草木染めの渋い色合いに、しなやかなつむぎの縞柄や格子柄、かすり白紬しろつむぎなどが作られ、きもの通に愛好されてきました。

飯田紬(いいだつむぎ)の技法

飯田紬いいだつむぎの経糸は、甘撚あまよりの生糸きいとで、緯糸が玉繭たままゆ(くず繭)からとった真綿まわた手紡ぎ糸を使用したり、経糸・緯糸ともにつむぎ糸を使う場合もあります。

染色は、飯田紬いいだつむぎ独特のものがありました。

白樺しらかば椿つばき、栗や山漆やまうるし、梅、胡桃くるみ、茶、かきはぎなどを天日で4〜5日間乾燥した後、細かく刻んで大きな木綿袋に入れておきます。

これを5時間ほど煮詰めて染液で染色し、媒染ばいせんには、木灰に熱湯や水を入れて混ぜてできた灰汁あく、または石灰汁が用いられました。

関連記事:染色・草木染めにおける灰汁(あく)の効用と作り方。木灰から生まれる灰汁の成分は何か?

製織せいしょくは、経糸にのみのり付けを行い、天日で乾燥させ、投杼とうちょ高機たかはたで織り上げられていました。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です