一陳(一珍)とは、江戸時代から伝わる糊防染の一つです。
一陳糊(一珍糊)を使用した一陳染め(いっちんぞめ)は、手描き友禅に用いられる糸目糊とも、板場友禅に用いる写しの色糊とも、また長板中型や紅型、その他の型染めに用いる防染糊とも違う、特徴的な糊を使う技法です。
貞享4年(1687年)刊の『雛かた』(源氏ひながた)の下巻に、一陳(一珍)についての記載があります。
これについて、後藤捷一氏は、「一珍糊を使って模様を染めること。一珍糊とは小麦粉と消石灰の混合物を布海苔で練り合わせたもので、この糊で型付けし乾燥した後、色差しを行ない、乾燥後布の両耳を斜に引いて糊をかき落とすもので、一名掻き落し糊ともいい、水洗いが不要である」と指摘しています。
目次
一陳(いっちん)の語源
一陳(一珍)の技法については、特にこれといった定義はなく、一陳糊(一珍糊)を使った染色の方法と広義に解釈されています。
一陳は、一珍や、一鎮などの文字が使われますが、その語源も諸説あり、この糊を考案したとされる友禅師の号一陳の名前を当てたとか、珍しい特徴を持つ糊なので「珍糊」といったなどの説があります。
江戸時代の貞享3年(1686年)版の『源氏ひいながた』に、友禅染めと共に記載されている27種類の染色方法の中で、「見事さは三国一ちん染」との記載があります。
江戸時代後期の安永7年(1778年)に出版された更紗の技法書である『佐羅紗便覧』は、以後、『増補華布便覧』、天明5年(1785年)版の『更紗図譜』と表題を改めるごとに内容も詳しくなります。
この本は、図柄と技法の両方を一冊に収めたもので、大正時代まで重版されてきたロングセラーですが、安永10年(1781年)出版の『増補華布便覧』から「インチン」という名称で一珍糊が用いられていることが紹介されています。
『更紗図譜』の「インチン」の項目には、「古渡りシャボン(石鹸)二匁、細かにつぶし、水に入れてしばらく置けば解けるなり、上の水を去りて、シャボンを指にてよく摺りつぶし、焼明バン一匁、極上のウドン粉五匁を合わして、ねばりの出るほどかきままし、用うべし」とあるのが、一珍糊の最初の処方であると考えられます。
一陳糊(一珍糊)という名前は、外来語の転化ではないかという説もありますが、はっきりとはしていません。
技術的なところだと、中国の印華布が糊を掻き落としているのは、日本の一珍糊と共通しています。
一陳染めの技法
一陳染めので最も重要な点は、元糊づくりです。
一陳(一珍)染めは、染料液のしみ込むこと(滲入)を防止する糊防染法であり、染色、乾燥後、布地から除去しやすい糊を作る必要があります。
そのため、先人達は、防染力は劣るが、水で練って粘りの出るタンパク質を含んだ小麦粉に目をつけて使ったものと考えられます。
小麦粉だけでは防染力が不十分なため、防染剤としてさまざまな物質を混ぜて使用されました。
一陳糊は文献によってその作り方に違いがありますが、作り方の要点としては、良質な小麦粉を水、または布海苔(ふのり)液で練り合わせ、石灰を水溶きして混合する点です。
始めから、小麦粉と石灰を混合して練り合わせることもあったようです。
一陳糊は、防染性におとり、布との密着性もあまり良くないため、糊置き前に必ず豆汁、ふのり地入れを生地に施す必要があります。
関連記事:染色・草木染めにおける豆汁(ごじる)の効用。豆汁(呉汁)の作り方について
一陳染の原料
一陳染に使用する一陳糊(一珍糊)を作る際の各種原料には、それぞれ防染における役割があります。
小麦粉
小麦粉は、米などの他のデンプン質において、もっともタンパク質を含んでおり(11%〜15%)、水で練るだけで強い粘り気が出ます。
筒描きしている際に、糊がプツプツ切れないよう、良質でより細かく粉にした小麦粉を使用します。
タンパク質の多い小麦粉は、水で練った場合、腐りやすいので早く使い切る必要があります。
タンパク質はアルカリ溶液を吸収して膨潤(ものが水を取り込んで膨らむこと)し、強アルカリで溶け出すため、これらの性質を応用して一陳糊(一珍糊)が作られるのです。
ふのり(布海苔)液
布海苔は、数々の薬品の影響に対して安定しており、少量だけでも粘りが出ます。
約1%のふのり液を水の代わりに使用すると、乾燥してできる一陳糊(一珍糊)の小さい穴(細孔)を埋める役割をします。
消石灰(水酸化カルシウム)
消石灰は、小麦粉のタンパク質に作用して粘りを強くします。
ただ、多く加えすぎると糊がバサバサして使えなくなるため、使用量には注意が必要です。
消石灰は空気に触れて古くなると、炭酸カルシウムに変化して効力が低下するため、保管にも注意する必要があります。
焼きミョウバン
ミョウバンは、硫酸アルミニウムの化合物で、ほとんどが染料と結合して不溶性の色素になります。
そのため、古くから染料の固着剤や色止め剤としても使用されてきました。
タンパク質と結合すると、水に溶けにくくなります。
石けん
石けんは、ミョウバンと一緒に使うと、不溶性で水をはじく金属石けん(金属と長鎖脂肪酸の結合で構成される化学物質)をつくります。
一陳糊(一珍糊)を作る場合、石けんはミョウバンと必ず一緒に使用され、撥水性のある防染剤として利用されました。
卵白(らんぱく)
卵白は、加熱して固まる性質を利用して、白色顔料のひとつである胡粉(貝殻から作られる、炭酸カルシウムを主成分とする顔料)などの顔料の固着剤として使用されました。
一陳糊(一珍糊)の場合は、小麦粉の密度を強くし、防染性を高めるために使用され、卵白を使用する場合は、消石灰を少なくします。
塩
塩を一陳糊(一珍糊)に少量入れると、糊が乾燥して染色前に割れてはがれ落ちるのを防ぐのに役立ちます。
使用量は、季節や天候によって調節します。
関連記事:染色・型染めにおける防染糊(ぼうせんのり)の作り方
一陳糊(一珍糊)の作り方の一例
一般的な小麦粉は、メリケン粉は粒子が粗いため、より細かな小麦粉を選んで使用します。
日清の強力粉カメリヤが一番適当で、粘りがあって良いとされます。
①小麦粉をさらにふるいにかけて、夾雑物を取り除きます。
しっかりと不純物を取り除いておかないと、糊を置く時にぷつりと糊が途中で切れてしまう可能性があります。
②ふるいにかけた粉は鉢に入れ、こねながら冷たい水を徐々に注いでいきます。お湯を使用すると、固まる恐れがあるため使用しません。
粉の分量は、その日の仕事量に合わせて決めます。
③徐々に水を入れながらこねて、粘りが出て、一本の糸のように切れずに伸びる状態になるまでこねます。
④石灰も少量入れます。石灰の役割は、一珍糊を生地に置いて密着させやすい吸着作用と、糊が乾いた後に生地から引き落とす場合に、剥がしやすくなる作用があります。
⑤乾燥した季節には、少量の塩を混ぜることで、湿気を持たせる効果があります。
⑥生地は縮緬、羽二重などの絹織物のほかに、麻布、綿布を使用します。
麻や綿は絹に比べて繊維が粗いため、糊の吸着をよくするために卵の卵白を入れることもありました。
一陣染めにおける色差しは、豆汁を引いた生地に彩色しますが、むかしの友禅は色を差した後に「蒸し」の作業せず、ミョバン液を引いて色止めをおこなっていました。
友禅染めにおいて蒸しによる色止めが始まったのは化学染料が導入され、板場友禅が登場してからです。
専業の蒸し屋が登場したのは、大正時代の初め頃とされます。
一陣染めの工程
一陳糊(一珍糊)が準備できれば、染めの工程に入っていきます。
①下絵は青花液を使って筆で生地に描きます。
②糊引きは、中金のついた渋紙の糊筒で行い、引く線の細い、太いは中金の先を削れば自由に調整できます。
③糊引きのポイントは、糸目のように強く筒を絞らないことで、力を入れすぎると糊が出過ぎてしまいます。
④糊を引くのは、上から下へと構図に沿って下ろしていきます。
⑤線描きを目的とした一陣糊の他に、元糊を使って、固めの糊や柔らかめの糊を作り、油絵用の筆や堅めの刷毛を使って構図の面に塗り分けると、色を差した時に、その糊の層の厚さ加減によって、しっかりと防染できる部分と色がにじんで染まる部分を表現できます。
⑥糊引きが終わり、自然乾燥できれば、彩色に移ります。
⑦一陣染めには、模様の彩色を引き染めの後に行うか、それとも白場に彩色するかの二つがあります。
小麦粉からできている一陣糊は水にふやけやすいため、彩色した模様を上から糊伏せして引き染めすると、引き染めの染料が糊を通過して下の模様部分に染み込んでしまう可能性があります。
⑧染色工程
精錬済みの絹布を湯通し→生地を台に張る→豆汁引き(地入れ)→全面に引き染め→蒸し・水洗い→青花で下絵を描く→一陣糊を置く→模様を彩色する→糊の引き落とし→蒸し・水洗い→仕上げ
彩色は淡い色から始めますが、濃色から始めている他の部分に色がかぶると対処が難しく、淡色であれば、他にかぶっても色がかぶったところを濃色にすればまぎれます。
⑨ミョウバンによる色止め方法は、キョウバンの中にニカワを入れて、濃色の部分を丁寧に小刷毛か筆で液を引き、それから生地を「菱入れ」といって生地の両耳を一人か二人で両手で持って、生地が菱形になるように斜めに引張り糊を引き落とす作業をしてから、「仕上げ落とし」と言ってナイフを使って生地にまだ付着している糊を落とします。
現在、色止めはミョウバンでの処理ではなく、「蒸し」で行っています
⑩蒸しの工程が進むと水元→湯のし整理によって一陣糊の工程となります。
一陳友禅の技法
京染めの中に、「一珍友禅」という種類がありました。
一珍友禅は、一珍糊を用いて筒描きの技法で糸目、伏せ糊を置いた後、染料液を刷毛染めし、乾燥後、糊を引き落とすか掻き落として模様染めをする方法です。
一珍友禅の流れとしては、以下のようになります。
①白生地に模様の構図の輪郭を青花で描いて、その部分をねば糊で伏せる
②地色を染め、水元(水で洗い流す作業)すると伏せ糊しておいた模様部分が防染されており、白く残る
③模様部分の中を青花で構図を細く描き、作っておいた一珍糊を渋紙でできた筒に入れて青花の線をなぞるように筒から糊を絞り出しながら置いていきます。
④この一珍糊が乾くと境界となり、染料を色分けして彩色しても、糊の境界によって染液が隣の部分へ移動しないので、色差し分けが自由にできます。
更紗染めに一珍糊を使用する技法
描き友禅はインド風なデザインが多く、帯びなどは1本(1丈2尺)分の全面に模様を描き染めることが多かったのです。
描き友禅染めに一珍糊を使用する場合は、以下のような流れとなります。
①まず墨書き(カチンガキ)といって、模様の輪郭を薄い墨汁で描き、その上を一珍糊で置いていき、防染の境界を作ります。
②一珍糊が乾くと、染料で色を差し分けます。
③一珍糊を引き落とすと墨書き(カチンガキ)の輪郭を持った更紗ができます。和更紗では、墨書き(カチンガキ)の輪郭が尊ばれました。
⑤切れどり風(割付)の更紗で境界を墨書き(カチンガキ)にしておき、内部の草花の輪郭を白くあげるときは、その部分に一珍糊を置き、その中に色を差しました。
【参考文献】『月刊染織α1987年5月No.74』