墨汁を水面に浮かべ、波紋状の模様を作り、水面に和紙や布つけて模様を染めることを「墨流し(すみながし)」といいます。
福井県武生市に伝わる「越前墨流し(えちぜんすみながし)」は、800年の歴史があります。
和紙や布を墨汁(ぼくじゅう)で染める墨流し(すみながし)
越前墨流し(えちぜんすみながし)には、奈良の墨のほかにも、阿波の藍、最上の紅花の3種類の染料が使用されてきました。
染料以外の材料としては、水と筆と、それを写しとる和紙や布が必要です。
墨流しの柄は、正流、横流し、縦流し、渦の4種類があり、これを組み合わせたりするなどして、さまざま柄が作られます。
越前墨流し(えちぜんすみながし)の技法
染色は、水(井戸水)を張った水槽を準備します。
手にした筆に染料を含ませて、筆先から染料を水面に落下させます。
1色だけの染めは、1本の筆ですが、3色染めは1度に3本の筆をもち、一気に水面に染料を落としながら模様を描きます。
水面に落ちた染料が、水の表面張力で広がって、さまざまな流動的な模様ができるのです。
模様ができた水面に、和紙や白生地を素早くつけて、柄を写しとります。
取り上げてから軽く水洗いし、ミョウバン液で染料を固着させます。
墨汁が水の中に沈みやすい時は、ムクロジ(無患子)を煮出した煎汁、タンニン酸、松ヤニなどを少量添付したようです。
どんなに良い構図が水面にできたとしても、染める作業が手早く行われないとうまくいきません。
墨流し(すみながし)の歴史
7世紀の初頭ごろ、中国から墨が伝えられた当時、墨流しの染色方法は、もともと貴族の遊戯の一種であったとされます。
越前墨流し(えちぜんすみながし)は、仁平元年(1151年)、大和の国(奈良県)の住人であった、広場治左衛門が奈良の春日大社のご神託によって「紅藍墨流し鳥の子紙製法」を授かったことに由来しています。
広場治左衛門は、上記の秘法に適した良い水を求めて諸国を歩き、越前武生(福井県)のわき水が適していることを知り、この地に永住したといわれます。
その後、豊臣秀吉にも認められ、江戸時代に入ると領主の松平氏のもと、明治時代になるまで代々藩の保護を受け、「鳥の子屋」と称していました。
本来の和紙染から奉書紬(手織りの薄い白紬)の布も染め、この地域の嫁入り衣装に用いられたとされます。
明治以降は、和紙染めから着尺などの服地も染めるようになり、一般庶民から親しまれるようになったのです。
福井県は、特に越前市でつくられてきた「越前和紙」は、その生成色の美しさと丈夫さで、岐阜県の美濃和紙、高知県の土佐和紙とならび、日本三大和紙に数えられています。
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古くから和紙生産が有名だったという点も、墨流しによる染色が行われていた理由のひとつと考えられます。