縞織布『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

縞(しま)の語源と由来。筋文様(縞模様)を表す「嶋」「島」「縞」について


2色以上の糸を使用し、たて、又はよこ、あるいはたてよこにすじを表した文様もんようを、しま格子こうしと呼んでいます。

縞織物は基本的に、縦縞(竪縞たてじま)、横縞よこじま格子縞こうしじまの3種類のうちのどれかに当てはまります。

使用されている糸の色や素材、糸の太細、緻密ちみつさ、配色、縞の幅の広狭こうきょう、金銀糸の使用、紋織もんおりの併用など、組み合わせによってありとあらゆるの縞織物が存在します。

しまという言葉は、すじ文様を総称する言葉として使われていますが、江戸時代の記述では、「しま」の他にも「しま」や「しま」、「間道かんどう」という字が当てられています。

嶋物しまものという言葉は、江戸時代初期の茶道における茶会記ちゃかいきに頻繁に表れ、嶋物しまものすじ文様の織物に限らず、外来の茶道具(きれ)全般を表す言葉としても使用されていました。

日本の服飾史において、古くから「すじ」と呼ばれてきた文様に、「しま」という名前が与えられていく背景には歴史があります。

室町時代後期から江戸時代前期にかけて、「しま」の名称をめぐる由来について、本記事ではたどっていきます。

「しま」以前の「筋(すじ)」という言葉

縞織布『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

縞織布『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

幕府政権が確立し、社会情勢が安定した室町時代後期において、武家の制度や礼式をはじめ、服飾に関して模範となる古来の事例や知識、心得などが「故実書こじつしょ」としてまとめられました。

故実書こじつしょなどの記述や鎌倉時代に盛んに書かれた絵巻物の人物像などによって、筋文様がどのように用いられていたのかを知ることができます。

故実書こじつしょの記述は、高位の武家のことから、奉公人ほうこうにん御供衆おともしゅうなどにおよび、衣服材料の格差(違い)が身分や人間関係の序列を示しています。

御供古実』(1482年成立)によると、白綾しらあや紋織もんおり唐織物からおりものを最上位とし、地色がくれないの格子、次に赤系統の筋(紅筋くれないすじ)、続いて織筋おりすじが位置付けられています。

その他の文献にあらわれるものとしては、鎌倉時代に中国の元(げん)が攻めてきた際の様子を描いた絵巻物『蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば』や、鎌倉時代の絵巻物である『法然上人絵伝ほうねんしょうにんえでん』などに筋文様の着物を着ている人物が表れています。

室町時代になると下級武士の間でも、筋文様の着物が着られるようになります。

室町時代後期の1528年(享禄きょうろく元年)に、伊勢貞頼いせさだよりによって著された武家の故実書こじつしょ宗五代艸紙そうごおおぞうし』の記述によると、筋文様の着物は、下位の物という認識がありながら、上位の武家にも着用されるようになっているように思われています。

この頃は、対みん貿易によって中国の繻子しゅす金襴きんらん緞子どんすなどの絹織物をはじめ、インド原産の木綿が輸入され、栽培が始まってくる時期で、日本の染織に大きな変化が生まれるタイミングでした。

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外来の材料を使って、帷子たかびら単衣ひとえ)の着物や装束を作る人々が現れ、室町幕府が服飾に対する禁令を発布することもありました。

縞(しま)語源と由来について

縞織物

縞織物

鎌倉時代以降、「下品の柄」という筋文様のイメージから少しずつ解放されようとしているところへ、外国から舶来してきた「嶋織物」という語が登場します。

「嶋織物」の語が初めて登場するのは、前述の『御供古実』(1482年成立)で、「嶋織物之事。人前へは不可然候。又しゅす、どんす杯も御禁制にて候」というような記述があります。

嶋織物は、中国から輸入された繻子しゅす緞子どんすと名を連ね、中国大陸から渡来の格式高い舶来品(唐物からもの)の一つとして、仕える身分の御供衆おともしゅうなどは、公の場での着用を禁じられていたことがわかります。

このように、嶋織物は、最上位の唐織物からおりものとは異なりますが、「唐物からもの」に新しく組み込まれた舶来織物で、必ずしも筋文様とは限りませんが、「遠い島々から渡来した珍しい織物が嶋織物である」という意味にとらえられていたとも考えられます。

唐木綿とうもめん』という言葉がさまざまな文献で登場するのも、『御供古実』(1482年成立)の頃です。

ところが、半世紀ばかりを経た室町時代末期の『宗五代艸紙そうごおおぞうし』や『奉公覚悟之事』によれば、嶋織物を身分の低い地下人じけにんなどの装束としての記述があり、半世紀の間で「唐物からもの」のひとつという認識からはずれ、下品の柄の中に組み込まれたと考察できます。

「間道(かんどう)」と「嶋物(しまもの)」

室町時代末期、服飾の場においては、嶋織物が下品の柄とされてもいましたが、有力武将の間で流行していた「茶の湯」の場では、嶋織物が良い評価を得ていました。

「茶の湯」では、目利きを持って選択された茶器の室内装飾が、「唐物名物からものめいぶつ」として珍重されていました。

唐物の知識を教え、作法の様式を伝えた書に『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』がありますが、その中に「唐物からものの名前として、中国産の焼き物を列記し、続いて金襴きんらん印金いんきん繻子しゅす緞子どんすをはじめ、邯鄲布や間道かんどうが列記されています。

間道かんどうは、「かん(現在の中国・山東省あたり)の筋」を意味すると考えられ、茶会の内容が主催者や茶湯者によって書かれた「茶会記」の中に、しばしば登場するようになります。

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茶の湯に用いられる有名なきれが、「名物裂めいぶつぎれ」という呼び名で整理したのが、小堀遠州こぼりえんしゅう(1579年〜1647年)であったと言われています。

寛政かんせい年間(1789年〜1800年)に出版された『古今名物類聚ここんめいぶつるいじゅ』には「間道かんどう」という字で名物裂めいぶつぎれとして名を連ねています。

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以上のように、茶の湯の場で、筋文様は鎌倉時代以来続いてきた固定評価から解放され、間道かんどうの名の下、唐物名物として扱われ、名物裂めいぶつぎれとしての評価を得たのです。

安土桃山時代になり、茶の湯が武将の世界から町人層へと普及するなかで、海外からの舶来品の人気が拡大しました。

この頃、南蛮貿易やオランダ貿易は、以前と比べてはるかに多種多様なものを中国以外の世界各地から持ち込み、舶来品といえば中国からきた「唐物からもの」という考え方から脱しなければなりませんでした。

このあたりで、服飾の場で初めて「しま」という語が登場します。

奈良のうるし屋三代の記録である『松屋会記まつやかいき』の江戸時代初期(1610年)の記録には、「コン地袋、緒(ヲ)紫、古ハ薬ヤ宗コン持タルノ也、今ハ嶋物ト云。」とあり、30数年前に奈良の薬屋宗コンが持っていた舶来織物の袋を「嶋物」という語で説明しています。

江戸時代に入ってからの「茶会記」には、唐物に変わって嶋物という語がたくさん現れます。

茶の湯の世界では、「嶋物」は、舶来品の総称の意味だけでなく、かつての唐物や国産品とも異なる南洋諸国から渡来したものという意味にも用いられていました。

筋文様(縞模様)を表す「嶋」「島」「縞」

江戸っ子に好まれた川越唐桟

江戸っ子に好まれた川越唐桟

日本に在住していたキリスト教の神父たちによって編集された日本語辞書『長崎版日葡辞書にっぽじしょ』(1603年刊)には、「シマオリ」の記述がありますが、「織物を多くの色 あるいは、種々な色の糸で織る織り方」とし、この時点ではシマが筋文様とは限定されていません。

ところが、先述の『松屋会記まつやかいき』の1630年代の記述には、「袋八木綿邯鄲、茶トカキト、カウシ(格子)嶋ナリ、緒ムラサキ」とあり、格子嶋の嶋は筋文様の意味に用いています。

松屋会記まつやかいき』の記述では、「嶋物」と「嶋」を区別し、嶋は筋文様を占める語義になりつつあります。

貞享じょうきょう3年(1678年)成立の山城国やましろのくに(現京都府南部)に関する初の総合的で体系的な地誌『雍州府志ようしゅうふし』には、「縦横條理ノ紋(中略)謂「嶋ト」」とあり、元禄時代げんろくじだい(1688年〜1704年)に近づく頃には、筋文様を「嶋」と呼ぶようになったようです。

元禄時代げんろくじだいに成立した『合類大節用集ごうるいだいせつようしゅう』(村上平楽寺蔵)には、柳条りゅうじょう茶宇ちゃうと読ませ、綅、、繊の3字をシマと読ませて、「綅」を経白緯黒、「縞」を経白緯赤、「繊」を経黒緯白のものというように区別しています。

先染めされた糸で織り上げた織物に「縞」の字が当てられたのは、この書が初見と考えられます。

増補華夷通商考ぞうほかいつうしょうこう宝永ほうえい5年(1708年)は、多くの縞に「島」の字を当てて、その産地を列記しています。

新井白石あらいはくせきの『采覧異言さいらんいげん』(1709年刊)には、「間道かんどうを縞物、柳茶やなぎちゃの意」と記しています。

寺島良安てらしまりょうあんによって江戸時代中期に編集された日本の百科事典である『倭漢三才図会わかんさんさいずえ』(1712年刊)には、「今凡日柳条俗用嶋字」とあり、元禄げんろく時代(1688年〜1704年)末頃には、嶋、島、縞、柳条、間道が筋文様を表す言葉として一致した概念に到達していることが考えられます。

安土桃山時代あづちももやまじだい(1568年〜1600年)から江戸時代初期の作と言われている数々の「遊楽図ゆうらくず」には、当時の言葉でいう「かぶき者」の男女の生き生きとした姿が描かれていますが、縦横や格子の縞が男女双方が着用している小袖こそではかまにみられます。

また、江戸風俗を描写した新見正朝しんみまさとも(著)『昔昔物語』にも、老若問わず、縞を着るゆえ、遠くから見分けがつかないとのべ「むかしは常の女縫薄ぬいはく光る小袖こそで着るゆへ、遊女無地もの島のるい着て、常の女と風替るべき為也」。とあります。

江戸の遊女風俗として縞が用いられ、元禄時代げんろくじだいごろには、江戸だけでなく、地方の遊女の間にも流行していたようで、井原西鶴いはらさいかく(1642年〜1693年)の『好色一代男こうしょくいちだいおとこ』にも縞を着た女郎風俗の描写が出てきます。

嶋、島、縞、間道が筋文様を指す言葉として一致した概念に到達しつつあるとき、服飾の場ではかぶき者や遊女の間で縞が積極的に着用されてきたことが文献からもうかがえるのです。

茶の湯の場で、縞は「唐物名物からものめいぶつ」の系譜の中で高い評価を得ましたが、後に服飾の場において、縞の本領が発揮され、「いき」のような新たな美的感覚でとらえられるようになります。

江戸時代の粋と縞

海外から様々な縞織物が届いたことによって、それを真似するところから始まり、徐々に日本でもオリジナルな縞織物が生産されるようになります。

機織はたおりは各家庭でおこなわれ、もっぱら女性の仕事でしたが、自家用で作る織物の参考のために、使い終わった大福帳だいふくちょうの上に縞柄しまがらきれが無数に貼りつけられた縞帖しまちょうが作られました。

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現存してい数々の縞帖しまちょうをみても、縞柄が人々に愛されていたことがよくわかります。

縞柄は、縦縞と横縞、格子柄などが主になりますが、特に江戸の「粋」であることを好む町人は、特に縦縞を愛用しました。

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縦縞は着用すると、縦方向の平行線が体の線に沿って表現されるため、色気を漂わす雰囲気やキリッとした洒落感が江戸下町の町人の好みにあっていたとも考えられます。

【参考文献】『月刊染織α1986年3月No.60』


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