コケ(苔)と呼ばれる植物には、スギゴケやゼヒゴケに代表される蘇苔類(moss)とウメノキゴケやマツゲゴケなどの地衣類(lichen)が含まれます。
この2種類は別の分類に属する植物であり、コケ(苔)と呼ばれるのは主に蘇苔類(moss)の方です。
地衣類(lichen)の染色は、「コケ(苔)染め」として知られています。
地衣類は、外見的には一つの植物のように見えますが、植物学的には、菌類と藻類の2種類の植物から成る生活共同(共生)体として、互いに必要な要素を供給しあっている特殊な植物です。
目次
染色・草木染めにおけるコケ(苔)
日本では、古くから天然染料による染色が行われ、大陸からもたらされた染色技術を取り入れ、独自に発達させてきました。
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さまざまな種類の植物が染色に使われてきましたが、地衣類を使用した染色に関する文献は残っておらず、日本では用いられてこなかったと考えられます。
日本で採集できる地衣類の中で、染色に使用できる代表的なものとしては、ウメノキゴケ(学名Parmotrema tinctorum)とマツゲゴケ(学名Rimelia clavulifera)の2種類が挙げられます。
本州から沖縄にかけて広く分布しており、空気がきれいで日当たりがよく、適度な湿度のある場所に生える梅や桜、松や柿などによく見られます。
ただ、日本で生育する地衣類の種類は、2000種とも3000種とも言われており、その中から染色に適したものを見分けるのは困難です。
ヨーロッパの伝統的な地衣類の染色方法は、大別すると茶系統の色合いを得るための「煮沸法」と、赤や紫系の色合いを染める「アンモニア発酵法」の2種類に分けられます。
煮沸法(しゃふつほう)
煮沸法は、単に地衣類を煮沸するだけで色を得られ、その茶色は金色がかった明るい金茶色から濃い茶色まで美しい色合いで表現でき、染め上がったものは独特な香りがします。
染め方が簡単な上に、耐光堅牢度も良いとされます。
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・煮沸法(しゃふつほう)の染色の工程
染料・・・マツゲゴケ
①精錬済みの染色物を用意する
②マツゲゴケは、ゴミや不純物を丁寧に取り除いて、刻むか細かくちぎるか、粉状にしておく
③染色容器にマツゲゴケの半分を敷き、その上に染色物を置き、さらにその上に残りのマツゲゴケをのせてから、染色物の約30倍の量の水を加える
④弱火で20分〜30分かけて沸騰するようにゆっくり加熱して、ムラにならないように約2時間煮沸する
液量が減ると、焦げたりムラになる原因となるので、適宜水を入れて液量を補う
長く煮るほど濃く染まるため、濃色に染めたい場合は、さらに時間をかけて長く煮る
アンモニア発酵法
アンモニア発酵法によって得られる赤や紫色は、煮沸法と比べると堅牢度は劣りますが、錫などで媒染することでいくらか欠点を補えます。
この方法に用いるアンモニアは、古来は腐らせた人尿を利用しましたが、現在では市販のアンモニアが用いられています。
アンモニア発酵法に使用されるウメノキゴケには、レカノール酸とアトラノリンという成分が含まれています。
これらは無色の物質ですが、レカノール酸は、アンモニアの添付と酸化によって、赤・紫色の物質に変化します。
アトラノリンは、アルカリ性の水溶液につけておくと、黄色が現れる性質があります。
アンモニア発酵法の染液の作り方
染料・・・ウメノキゴケ 薬品・・・アンモニア、オキシドール(過酸化水素水)
①よく乾かしたウメノキゴケからゴミや不純物を丁寧に取り除いて、刻むか細かくちぎる
②ウメノキゴケ10gを蓋付きの瓶に入れて、これに約3%のアンモニア水200ccを加えて良くかき混ぜる
③これにオキシドール5cc(一般試薬の過酸化水素水の場合は約10倍の水で薄める)を加えてからかき混ぜ、蓋をする
④室温は、高くても低くても良くなく、20℃〜25℃くらいが適温で、一日に2〜3回蓋をあけてよくかき混ぜる
⑤早ければ1日で液が赤味を帯びはじめ、遅くとも2〜3日で変化し、日毎に赤味が増していく
⑥5日〜10日ほどで紫色を帯びはじめ、一ヶ月も経つとすっかり紫色に変化する
紫味の強い色に染めたければ、一ヶ月以上経って反応液が十分に紫色に変化してたものを使用しますが、赤味の強い色に染めたければ、その途中のものを使用するのが良いです。
アンモニア発酵法の染色工程
①好みの色に変化させた反応液を染色容器に入れる
②容器に入れた反応液のアンモニア強ければ、風通しの良いところにおいてかき混ぜ、残っているアンモニアを空気中に追い出す。
③これを4倍の水で薄めたあと、ざるにガーゼを敷いて、染液を濾す
④染液を火にかけ、ぬるま湯になったらあらかじめ水に浸しておいた糸を30g入れ、徐々に温度を上げていく
⑤沸騰寸前の温度で約20分間加熱しする(高温で長時間煮沸すると色が黒ずむ)
⑥染液を火からおろし、室温になるまで冷やす
⑦色が濃く、堅牢度を高くする場合は染め重ねる
⑧すすいでから陰干しをする。紫色を得たい場合は、1リットルに対して3cc入れたアンモニア水に10分ほど浸す
アンモニア発酵法でも、媒染剤を用いると多少色が変化し、堅牢度も良くなる場合もあります。
・染料による色の変化
茶色・・・マツゲゴケ
ベージュ・・・イワタケ、ウメノキゴケ、サルオガセ、カブトゴケ
黄色・・・マキバエイランタイ
赤・紫・・・イワタケ、ウメノキゴケ、カブトゴケ、ニクイボゴケ
地衣類(ちいるい)を採集する
地衣類を採集するときは、雨が降った後の少し湿った状態の時が、比較的形を崩さずに採集できます。
地衣類は、濡れた状態では組織が崩れにくくありますが、乾燥しているものはもろく、簡単に形が崩れてしまいます。
採集した地衣類は、しっかり乾燥させて紙袋に入れておけば、何年も保存できるようです。
同類の地衣類が樹木と石の両方にくっついている場合は、石の方から採集する方が良いとされます。
理由としては染色時に樹皮が混入している場合、樹皮に含まれるタンニン等の影響で色が汚くなる可能性があるためです。
ウメノキゴケを採取する
ウメノキゴケを採取する際には、似ている地位類が多いため注意が必要です。
外見がよく似ていても、含有する成分が異なる場合が多いため、赤紫系統の染液を作る場合は間違えると失敗する可能性があります。
ウメノキゴケの見分け方に関しては、ウェブ検索で調べてもらえればその特徴が記載されています。
念を入れる場合は、採取した地位類の小片をもみ砕き、これに洗濯用の塩素系漂白剤を一滴加えてみた結果、すぐに赤味をおびればウメノキゴケに違いありません。
ウメノキゴケ以外に赤紫系統の染液原料になるものとしては、ヨコワサルオガセやトゲハクテンゴケ、オリーブコケモドキなどがあります。
地衣類を使用した染色の歴史
地衣類を使用した染色は、ヨーロッパにおいて歴史は古く、古代ギリシャ時代には地衣類を使用して羊毛を染色したという記述が残っているようです。
地中海を中心に行われていた地衣類を使用した染色は、赤や茶色を染める代表的な植物染料のひとつです。
ヨーロッパにおいては、東部地中海シリア西部に栄えた古代フォニキア人によって、高貴な身分を象徴する紫色を染めるのに貝紫(Royal purple)が用いられていたことはよく知られています。
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貝紫で染められた紫色の服を着るのは、王族や聖職者の特権でした。
貝紫の染色に際しては、あまりにも多くの巻き貝を必要としたために、地方で豊富に採集できた地衣類(主にRecella tinctoria)を使って紫色の下染めをしてから、その上に貝紫を重ねて染め上げていたとも言われています。
この染色方法は、12世紀まで続き、貝紫による染色技術が消滅した12世紀以降は、地衣類による紫色の染色法だけが高貴な色の象徴として用いられたようです。
この地中海で行われていた地衣類を使用した染色は、14世紀になってから一人のイタリア人商人によって染色方法が研究され、ウールを染めるための地衣類を使用した染色法が確立されました。
彼のおかげでイタリアでは約1世紀もの間、地衣類の染料の製造と販売を独占できたのです。
その後、イギリスやフランスなどの各国にも地衣類の染色が広がり、結果としてアフリカのカナリア諸島やヴェルデ岬諸島から原料となる地衣類を競って輸入することになったのです。
各国で盛んに行われていた地衣類の染色は19世紀の合成染料の発明と普及によって、他の天然染料と同様に急速に衰退していったのです。
スコットランドのアウター・ヘブンリーズ諸島で織られているハリスツイード(HarrisTweed)には、地衣類を使用した染色が今でも行われているようです。
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地衣類を使用して茶色に染められたハリスツイードは、独特な香りがし、防虫効果があるとも言われるようです。
苔色(こけいろ)の色合い
一般的に苔色とされる色合いは、青苔の深い緑色のことで、濃緑よりもやや萌黄(黄色みがかった緑色)がかり、暗味のある渋い色を表します。
外来語であるモス・グリーン(moss green)に訳語としても、苔色は使用されます。
【参考文献】『月刊染織α1987年11月No.80』