板締めは、布地に両面から板を当てて、きつく両側から固定することで防染し、模様を染める技法です。
日本で古くから行われてきた染色技法を表す言葉に、絞り染めの纐纈、ろうけつ染めの臈纈、そして板締めの夾纈があります。
上記の三種類の技法は、「三纈」という言葉でまとめて表されます。
染色技法における板締め染め(plate resist dyeing)
古くは、推古天皇(554年〜628年)の頃から板締めのことが夾纈と呼ばれていたとされます。
天平時代(729年〜749年)には服地を染める重要な染色技法となっていきました。
奈良の正倉院に保存されている三纈の技法で染められたものの内訳としては、夾纈(板締め)は約100種、臈纈(ろうけつ染め)は約60種、纐纈(絞り染め)は約20種あるようです。
内訳をみると、当時は夾纈(板締め)が代表的な模様をつける技法であったのではないかと考えられますが、一方でろうけつ染めのハギレもたくさんあるようなので、どの技法が一番使用されていたのかは断定できません。
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紅と藍の板締め
江戸時代には、紅と藍の単色の板締めが盛んに染められていました。
藍の板締めについては、島根県出雲市の板倉家にまとまった資料が残されており(現在は資料の大部分を島根県が所蔵)、「出雲藍板締め」と呼ばれています。
板倉家は、江戸時代後期には紺屋を営み、江戸末期の40年間は藍で板締めを染めていましたが、明治3年(1870年)に紺屋を廃業しています。
紅の板締めは京都で盛んに行われ、最後まで紅板締めを行っていたのが「紅宇」という屋号の高野染工場で、大正末期に紅板締めを廃業しました。
紅板締めは、地が紅で染まり、模様部分が白く染め抜かれた地染まり模様が多いです。
藍板締めは、板倉家に残っていた176種を越える型板のうち、143種が白地に藍の模様だったことから、地が藍で染まっておらず、模様部分が染まっている傾向があったようです。
その理由としては、藍は、甕に布全体をつけて染めるため、白場を多く残すことは簡単ではなく、型染めで地白模様を両面染めることは、高度で手間のかかる仕事だったことが考えられます。
型紙を使う友禅染めや、浴衣や手ぬぐいを染めている注染などでは、現代でも夾纈の技法が取り入れられています。
糸染めにおける板締め
板締めは、絣の糸を染める際にも活用され、板締め絣として絣の織物が作られました。
東京都の村山地方(東村山あたり)で盛んに織られていた紬の織物に使用する絣糸は、経糸、緯糸とも「板締め」によって染められていました。
絣板は「みづめ」と呼ばれる樺の木が用いられ、図案に合わせて、彫師によって縞状(凹凸)に彫られます。
出来上がった絣板に糸をはさんでいき、1度に約18反分を積み重ねて、ボルトで絣板ごと締めていきます。
染色は、注入染法が用いられ、染料を板の穴からシャワーとひしゃくを使って注ぎ込み、染められました。
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