近江上布とは、滋賀県の琵琶湖の東岸の神崎、愛知、犬上地区などで織られる麻布を表しています。
このあたり一帯は、琵琶湖の豊富で良質な水に恵まれているため、古くから数々の布が織られてきました。
近江上布(おうみじょうふ)の歴史
近江上布という名前は、明治時代以後に人々から使用されるようになり、男物は白絣、女物は紺地で紺嫁絣と呼ばれ、広く知られていました。
もともと、滋賀県の琵琶湖の東岸地域の上布は、室町時代には織られていたとされています。
滋賀県犬上郡多賀町多賀にある多賀大社に残る文献には、ここの神官が、朝鮮征伐(文禄・慶長の役)に向かう豊臣秀吉に、御祈祷札と帷子を送ったことが記されています。
この帷子は麻でできた上布で、このあたりで織られたことから「高宮布」と呼ばれました。
滋賀県東部にある彦根市高宮は、その昔、中山道の宿場町で、多賀大社の大鳥居があることで知られており、江戸時代にはかなりの人で賑わっていました。
高宮布は、慶長年間(1596年〜1614年)から、井伊家の進物用として彦根藩の御用品になります。
江戸時代を通じて彦根藩の保護、育成を受けて高宮布の生産は一段と盛んになったのです。
江戸時代の高宮布の原料は、大麻でした。
大麻は高さ2m〜3mの直立した1年草で、この茎の靭皮繊維を細く裂いて紡ぎ、琵琶湖の水で晒し、居坐機で織られました。
かつては、原料の麻は石川県の能登や富山県の越中などから、近江商人を通じて買い寄せられていましたが、高宮布の技術水準は高く、文化年間(1804年〜1818年)には、能登に技術指導したほどでした。
上物は、「高宮上布」や「高宮細美」といわれ、武士や神官、僧侶、町人から農民まで広く利用され、衣服だけでなく、裃や僧衣にも用いられました。
明治時代以降は、滋賀県東部で生産される上布は、近江上布という名で人々に親しまれるようになりました。
近江上布(おうみじょうふ)の技法
近江上布は、古くは経糸、緯糸ともに大麻の手紡ぎ糸が用いられていましたが、現在は経糸、緯糸ともにラミー糸(苧麻の紡績糸)が使用されます。
絣糸の加工は、櫛形の木を用いて、染料を摺り込む「櫛推し」、木の平板に糸を巻きつけ、その上から型をあてて色糊を置く「羽根巻き」、そして「板締め」の3種類が主に行われていました。
糸の染色は、主に藍染による浸染(しんせん)が行われていました。
製織は、バッタン式の高機で織られていました。
織り上げた布は、糊付け、槌打(織物を平らな木や石の台(砧)にのせて、槌で打ち、布に光沢や柔らかさを出すこと)などの工程を経て、出来上がります。