近江上布(おうみじょうふ)とは?近江上布の歴史や技法について


近江上布おうみじょうふとは、滋賀県の琵琶湖の東岸の神崎かんざき愛知えち犬上いぬがみ地区などで織られる麻布を表しています。

このあたり一帯は、琵琶湖の豊富で良質な水に恵まれているため、古くから数々の布が織られてきました。

近江上布(おうみじょうふ)の歴史

近江上布おうみじょうふという名前は、明治時代以後に人々から使用されるようになり、男物は白絣しろがすり、女物は紺地で紺嫁絣こんよめがすりと呼ばれ、広く知られていました。

もともと、滋賀県の琵琶湖の東岸地域の上布じょうふは、室町時代には織られていたとされています。

滋賀県犬上郡多賀町多賀にある多賀大社たがたいしゃに残る文献には、ここの神官が、朝鮮征伐(文禄ぶんろく慶長けいちょうのえきの役)に向かう豊臣秀吉に、御祈祷札ごきとうふだ帷子かたびらを送ったことが記されています。

この帷子かたびらは麻でできた上布じょうふで、このあたりで織られたことから「高宮布たかみやふ」と呼ばれました。

多賀大社(たがたいしゃ),Taga-taisha, shaden-1

多賀大社(たがたいしゃ),Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons,Link

滋賀県東部にある彦根市高宮は、その昔、中山道なかせんどうの宿場町で、多賀大社たがたいしゃの大鳥居があることで知られており、江戸時代にはかなりの人で賑わっていました。

高宮布たかみやふは、慶長年間けいちょうねんかん(1596年〜1614年)から、井伊いい家の進物用として彦根藩ひこねはんの御用品になります。

江戸時代を通じて彦根藩ひこねはんの保護、育成を受けて高宮布たかみやふの生産は一段と盛んになったのです。

江戸時代の高宮布たかみやふの原料は、大麻おおあさでした。

大麻おおあさは高さ2m〜3mの直立した1年草で、このくき靭皮じんぴ繊維を細く裂いてつむぎ、琵琶湖の水でさらし、居坐機いざりばたで織られました。

かつては、原料の麻は石川県の能登のとや富山県の越中えっちゅうなどから、近江商人おうみしょうにんを通じて買い寄せられていましたが、高宮布たかみやふの技術水準は高く、文化年間(1804年〜1818年)には、能登に技術指導したほどでした。

上物は、「高宮上布たかみやじょうふ」や「高宮細美たかみやさいび」といわれ、武士や神官、僧侶、町人から農民まで広く利用され、衣服だけでなく、かみしも僧衣そういにも用いられました。

明治時代以降は、滋賀県東部で生産される上布は、近江上布おうみじょうふという名で人々に親しまれるようになりました。

近江上布(おうみじょうふ)の技法

近江上布おうみじょうふは、古くは経糸、緯糸ともに大麻おおあさの手紡ぎ糸が用いられていましたが、現在は経糸、緯糸ともにラミー糸(苧麻ちょまの紡績糸)が使用されます。

かすり糸の加工は、櫛形くしがたの木を用いて、染料をり込む「櫛推くしおし」、木の平板に糸を巻きつけ、その上から型をあてて色糊いろのりを置く「羽根巻き」、そして「板締め」の3種類が主に行われていました。

糸の染色は、主に藍染による浸染しんぜん(しんせん)が行われていました。

製織せいしょくは、バッタン式の高機たかばたで織られていました。

織り上げた布は、のり付け、槌打つちうち(織物を平らな木や石の台(きぬた)にのせて、つきで打ち、布に光沢や柔らかさを出すこと)などの工程を経て、出来上がります。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です