熊野染とは、江戸時代から明治時代の終わり頃まで、岡山の城下で染められていた型染め技法のことで、「隈染」ともいわれます。
一般的には「伊予染」と言われており、全国各地でもこの技法が用いられていました。
熊野染(くまのぞめ)とは?

万筋(まんすじ)と呼ばれるような縞柄が彫られた伊勢型紙(引彫り)(縞彫り)
熊野染とは、直線の縞柄の型紙を使って、布地を2度染めあげて、2種類の模様を染め出していく方法です。
化学染料のなかった時代、色を染めるにあたっては、植物染料やベンガラなどの顔料、墨汁などが用いられていました。
はじめに色が染まらないようにするために糊を置き、同じ型紙を少しずらして違った色を染めていきます。
そうすることで、染めた2色と、糊で防染されて色がついていない布地の白い部分、そして2色が重なったもう1つ異なる色合いの部分が生まれ、合わせて4色になります。
こうして出来上がった熊野染は、柄が大きく、簾が風に吹かれて作り出す縞模様のように見えるところに、大きな特徴があります。
布地が主に紺色など無地のものが多かった時代には、直線と波線が交わってできる特徴的な模様の熊野染は、高級品の一つに挙げられたと考えられます。
熊野染には、「藍隈」、「茶隈」などがあり、絹の着物や羽織、茶道具用の布地などの染色に用いられていました。
綿に染められたものの多くは布団地として使用され、「備前の隈染の布団」として、人々から親しまれていたようです。
熊野染の由来
なぜ「熊野染」という呼び方になったのかはっきりとはしていませんが、江戸時代中頃の岡山地方の地誌である『備陽国誌』には、岡山府内の産業の項に、「熊野染 府内所々にて是を染め出す」というように記されています。
また、庶民の教育に用いられていた寺子屋用の教科書であった『備前往来』にも、天保の頃(1830年〜1844年)の岡山城下の名産品の一つとして、「京紺屋之隈染」とあり、熊野染のことが取り上げられています。
明治時代になってからも、かつての岡山城下には多くの職人が技術者集団として活躍を続けていました。
明治16年(1883)に出版された銅版画集である『山陽吉備之魁』にも、染物屋の店先を見ることができ、8軒ほどあったといわれる紺屋のほとんどが、熊野染を手がけていましたようです。
【参考文献】『月刊染織α1997年4月No.193』