私たちの生活のなかに、ニット製品は当たり前のように溶け込んでいます。
ニットとは、英語では「Knit」で編んでつくった服や生地を意味します。
手編みのマフラーを編んだことがあるような人は、その原理がよくわかるかと思いますが、馴染みのない人にとっては、そもそもどうやって編むのかを理解するのはなかなか難しいです。
そもそも編むとはどういうことなのか、また織物と比較してどのような特徴があるのでしょうか。

Sadarama, CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons,Link
編むとは何か?
「織る」というのは、経糸と緯糸を直角に組織して布にすることを言いますが、「編む」というのは、糸やひも状のものを一本ないしは何本も使って絡ませたり、格子状に組んだり結んだりして、布状のものをつくることすべてを表しています。

ニットの基本的な構造,Single knit,Elkagye, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons,Link
例えば、「マフラーを編む」「かごを編む」「網を編む」など、それぞれ違った技術を使うものが同じ「編む」という言葉で表現されていたりします。
本記事での「編む」は、輪っかのようなループを連続的につなぎ合わせて布にする技術について意味しています。
ニットの種類
経編(たてあみ)と緯編(よこあみ)
ニットには、編んでいく方向に対して、経方向に糸を進めて連続したループをつくっていく経編と、緯方向に糸を進めて連続したループをつくっていく緯編の2種類あります。
経編の機械には、トリコット編機やラッセル(ラッシェル)編機、ミラニーズ編機などが挙げられます。
緯編という分類のなかに、円形状に編み針が並び、筒状に編んでいく丸編みがあります。

丸編み機,Circular knitting machines,Hanne Dale / Tekstilindustrimuseet, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons,Link
参照:ニットの編み方・組織
経編と緯編の特徴については、下記の記事が非常にわかりやすいです。
参照:経編(タテアミ)とは?
経編は緯編と比べると伸縮しづらい性質がありますが、生地がしっかりします。ただ、緯編よりは実用性が低いです。
緯編は、経編と比べるとほどけやすくいですが、伸縮性に富み、成形しやすいという特徴があります。
織物と比べたニット製品の特徴
①伸縮性が高い
ループが連続してつながっているので、外から力を加えると簡単に伸びます。経編は緯編ほど伸縮性はなく、織物と編み物の中間くらいなイメージです。
②糸と糸の隙間が大きい
ループが立体的に組み合わさっているので、糸と糸の間の隙間が織物に比べるとはるかに大きく多いです。
多くの隙間があることを「多孔性がある」といいますが、隙間があるということは、それだけ含まれる空気の量が多く、保湿性や素材の軽さにつながります。
③柔軟性がある
ニットは織物に比べると非常に柔軟で、ドレープ性に優れています。ドレープ(drape)とは、「(衣類、掛け布などを)優美にまとう」という意味で、衣類をまとうことによって自然にできた布のたるみやひだのことを、「ドレープ性が優れる」などといったりします。
④成形が可能なものがある
緯編では、編み地を増やしたり減らしたりして生地幅を変えたり、くっつけたりすることができます。そのため、靴下やセーターなど、ほとんど最終的な完成形に近い形に編み上げてから、あとで部分縫製することができるのです。
⑤ほつれやすく、型くずれしやすい
緯糸は一部分が切れてしまうとループが縦方向にほつれていき、タイツをイメージするとわかりやすいですが、いわゆる「伝線」がしやすいです。経編の場合は、その心配はありません。
また、型くずれしやすいというのも特徴的です。特に、緯編の場合はループが自由な状態で組織されているため、外部の力によって形がくずれます。ニットをハンガーにかけていたら、伸びていたなんてことはよくあることです。
⑥縫製、裁断、仕上げが難しい
織物に比べると、縫製、裁断、仕上げが難しい点も、ニットを扱っているお店にとっては、悩ましい点です。
日本における編み物の歴史
日本における編み物の歴史は、安土・ 桃山時代の1592年ごろにポルトガル人やスペイン人によって、手編みの靴下や手袋などがやってきたことが始まりとされています。
その後、1596年〜1614年の南蛮貿易時代の文献には「メリヤス」という言葉が記載されています。
今、現存するものとしては、常陸水戸藩の第2代藩主であった徳川光圀が着用していた綿とシルクの靴下がもっとも古いものとされています。
柄編みの靴下で、再現を試みたところ、一足つくるのに機械編みで数日かかったそうです。
徳川光圀といえば、創作物語である水戸黄門の黄門さまその人です。
編み物が一般庶民の生活の中に現れたのは、1673年〜1680年に書かれた俳諧集である「洛陽集」のなかにある「唐人の古里さむくめりやすの足袋」とされています。
手編みの技法に関しては、南蛮貿易が盛んな時代に最初は遊女に伝わったようです。
その後、手編みの技法は町人の間に普及しますが、そこから武家のものとなり、1804年〜1830年のころには、江戸で手袋を製造販売する人々が現れました。
手編みの普及によって、足袋、手袋、印籠下げ、襦袢、股引き、胴衣などさまざまな品々や衣服がつくられ、徳川時代の人々の生活のなかに取り入れられました。
生産の主な担い手は、江戸在勤の諸藩の微禄武士や浪人たちの手内職で、神田付近の糸屋、足袋屋が取り扱ったと伝えられています。
ニット生産の近代化
明治時代に入ると、メリヤスは「莫大小」あるいは「目利安」と書かれて大衆化していきますが、機械編みが本格的に始まったのは、明治3年に佐倉藩士の西村勝三(1836年〜1907年)が横浜外商館から、手回し式の小丸機、靴下編み機を手に入れて生産がはじまってからです。
明治6年(1873年)に開かれたウィーン万博から持ち帰られた編み機をモデルにし、東京府の楠本正隆が鉄砲鍛冶の名人であった国友則重に模倣品を作らせました。
国友則重は、直径8寸(約24cm)の円形に290本の線を切り込んで編機を作り上げたそうです。これが国産の編み機の第一号になりました。
明治8年(1875年)には、機械編みの靴下がはじめて清国に輸出され、その後のメリヤス産業は日清、日露戦争による軍事品生産を中心に急速に伸びていきます。
大正時代には、綿靴下、軍用手袋、肌着などから高級品までに用途を広げ、世界各国に輸出を伸ばし第一次世界大戦後にはイギリスをはじめとする欧米の水準に追随するまでにメリヤス産業が発達します。
その後、第二次世界大戦でメリヤス産業ももれなく壊滅的な打撃を受けましたが、GHQによる「繊維産業再建三ヶ年計画」によって、アメリカから提供されたCCC綿による生産の再開、朝鮮特需などの波にのり、さらなる飛躍の機会を得ることに成功しました。
メリヤスからニットへ
もともとメリヤスは、肌着や靴下を主に表す言葉でしたが、ファッション性の高い上着までにも生産が広がったため、より包括的に表す言葉として「ニット」という呼び名が使われるようになりました。
ニット生産の技術の発展は、合成繊維が発明されたことによってもたらされた影響が大きいですが、昭和40年代以降の高度経済成長と共に消費の多様化が進み、ニット生産の自動化、高速化が進みました。
高級な綿糸やコーマ糸の使用の増加により、糸の高品質化が進みより高級化したものが多く作られることになりました。
世界に目を向けてみると、エジプトは首都カイロの古代都市の遺跡から、二本針による靴下が発掘されたとあり、5世紀のエジプトでは、ループ編成をしたはき物が使用されていたというのは確かな事実なようです。
ニットの機械化は、1589年にイギリスはノッチンガムの牧師であったウィリアム・リーがひげ針を発明し、手動式の靴下編み機をつくったのが始まりと言われます。
その約200年後、1775年にイギリスのエドモンド・クレインがトリコット編機を発明し、経編みの機械化の先駆けとなりました。
1849年には、イギリスのマシュウ・タウンゼンドがべら針を発明し、この功績によってニット編み機は画期的な発展を遂げることになります。
産業革命では、紡績された織物の布が主役となり、ニットはあまり目立った存在ではありませんでしたが、ニットの技術も織物からはやや遅れる形ではありましたが急速に発展していきました。