「勘合貿易」は、室町時代に勘合(勘合符)を用いて行なった日本と中国(明)との貿易形態を表します。
室町幕府3代目将軍の足利義満(1358年〜1408年)は、幕府の財政難を打開するために、倭寇(13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を荒らしていた海賊)の取り締まりと引き換えに、朝貢(外国の使者などが朝廷に貢物を差し出すこと)という形式で日明貿易を開きました。
室町時代の勘合貿易(かんごうぼうえき)と染織品
勘合貿易の際、中国(明)は幕府に対して勘合(勘合符)を発行し、勘合を所持した船舶とだけ交易が認められていました(1404年)。
そのため、中国(明)との交易がしたい人々は、勘合(勘合符)を取得するために、必ず足利将軍を介さねばなりませんでした。
事実上は、日明貿易の権利は幕府に独占されており、幕府は貿易の利益を献納させて、財政を立て直しました。
勘合貿易は、一時中止されたこともありましたが、16世紀半ばまで続きました。
日本からの輸出品としては、刀剣や槍、銅、扇、漆器、硫黄などが輸出されます。
中国(明)からの輸入品としては絹織物や生糸、明銭(永楽通宝)や美術品、薬剤などを輸入していました。
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永楽通宝は、「永楽銭」や「永銭」などとも呼ばれていました。
硬貨の中心にある穴の上下に永・楽、左右に通・宝の文字があり、永楽の字が瑞祥(めでたいことが起こるという前兆)の意味をもつため、模様(文様)や紋章によく持ちいられました。
永楽通宝のデザインは、男物の浴衣や襦袢、絣の模様(文様)などにみられ、庶民的で洒落っ気のあるものとされていました。
輸入品は、国内では「唐物」として珍重され、流通させることによって、室町幕府は莫大な利益を得ることができ、室町時代の文化に大きな影響を及ぼしました。