オートクチュール(haute couture)は、フランス語で「高級衣装店・高級既製服」という意味ですが、英語でも通用しています。
婦人服のファッションの発信地は、多くの場合フランス・パリのオートクチュールからとされます。
オートクチュール(haute couture)とは、特定のお客様に対してそのお客様のために仕立てた一点物の高級仕立服のことを表します。
オートクチュールの(haute couture)語源
オートクチュール(haute couture)の「オート(haute)」の語源は、印欧祖語(インド・ヨーロッパ語族の諸言語の共通の祖先とされる理論上の言語)「al=育つ」で、ラテン語の「altus=高い」を経由して、「高い、高地、高値、高級、上流」などの意味があります。
「クチュール(couture)」は、ラテン語の「consuere=縫い合わせる」、「co(n)sutra」=縫うこと」きており、「couture」は「縫製、縫い目、仕立て」の意味となります。
そのため、「haute couture」で、「良い仕立ての注文服店(高級裁縫店/高級衣装店/高級既製服)」などの意味になります。
オートクチュールの他に、「メゾン・ド・クチュール」や単に「メゾン(家)」とも言われます。
オートクチュールを満たすための条件
オートクチュールは、最高級の服飾素材を用い、熟練した職人の手仕事による服作りであるため、非常に高価です。
パリにはオートクチュールの組合があり、正式名称は「ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ(La Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)(1868年設立)」で、通称「サンディカ」といわれます。
パリでオートクチュールと名乗るため(組合加盟するため)には、さまざまな条件を満たす必要があります。
- 創作は専属デザイナーによること
- 常勤スタッフの人数を満たすこと
- 特殊な技術(ex.刺繍など)を除いて、原則として店内で制作すること
- 春秋2回以上の発表会で一定以上の作品をモデルに着せて、お客やバイヤー、報道機関に発表すること
オートクチュールは、コレクションや展示会などで発表した衣服をそのまま、あるいはお客のサイズに合わせて販売するのが本来の形態ですが、世界的にオートクチュールで買い物をする貴族や富豪が減少したことによって、経営の形も大きく変わってきました。
つまり、既製服業者への複製権(ライセンス)の販売やオートクチュールの名声、商号、技術を利用して、普及品としての既製服作り(プレタポルテ(仏prêt-à-porter)」、付属のお店である「ブティック」の商品としての服飾小物やバッグ、香水や化粧品などの売上が大きくなっています。
既製服は、もともと既製品という意味を持つ「コンフェクション」や「レディ・メイド」と呼ばれていましたが、これらの言葉は「大量生産された粗悪な安物」というニュアンスがあったため、それらと区別するために「プレタポルテ(高級既製服)」という言葉が生まれました。
オートクチュールの歴史
オートクチュールの始まりは、18世紀にヨーロッパの女性ファッションの中心地となったフランスのパリで、王侯貴族の専属的な裁縫師が次第に評判を得て有名になっていきました。
ただ、この段階では、まだ単に注文されて服を仕立てる出入り商品の域を出ませんでした。
自ら創作し、モデルに着せてたものを顧客に見せて売るという現在のオートクチュールの形態をつくったのは、イギリス生まれの「シャルル フレデリック ウォルト(1825年〜1895年)」でした。
彼は、ロンドンの織物商で修行した後、1846年に婦人服地を専門に扱うパリ有数の服地商であった「ガジュラン」に勤めます。
ここではリヨン製の絹織物の仕入れをしたり、ドレスなどの婦人服を作り、パリ万博などで評判を得ました。
しかし、服地屋にこだわる店主と経営方針について折り合わず、1857年独立し、初のオートクチュールをオープンしました。
ウェストを強調するなどとした新しいスタイルによる数種類の基本モデルと、それを元にして顧客の個性を引き出すようなバリエーションを追求するなどの新しい試みをします。
彼はたちまち評判となり、ナポレオン3世の皇后だった「ウジェニー・ド・モンティジョ」(1826年〜1920年)の専属デザイナーの地位を獲得します。
これを契機に、広くヨーロッパの王侯貴族に深く入り込んでいきました。
また、彼は服地商時代(ガジュラン勤務時代)から、それまで人形に着せて見せていた創作服を生きたモデルや、時には顧客の貴婦人をモデル代わりにして訴求力を高めていました。