紫染は主に京都で行われていましたが、徳川吉宗(1684~1751)の奨励なども相まって、紫草の栽培や染色が江戸でも行われるようになったといわれています。
江戸時代くらいから紫根染がおよそ東西の二つに分けられ、京都の「京紫」に対して、江戸で行われた紫染は「江戸紫」と呼ばれました。
江戸紫(えどむらさき)と京紫(きょうむらさき)
江戸時代後期に出版された三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の百科事典である『守貞謾稿』(天保8年(1837年)に記録を始め、嘉永6年(1853年)成立)には、江戸紫は黒みがかった紫であり、京紫は赤味がかった紫との記載があります。
京都の昔からの「紫屋」と呼ばれる専業としている紫根染屋が染めていたもので、昔でいうところの古代紫です。
南部紫(盛岡産)や鹿角紫(花輪産)なども、古いものは古代紫、すなわち京紫に近い色であったと考えられています。
京紫が伝統的な紫染を受け継いだ少し赤みがかった紫色であるのに対し、「江戸紫」は青み(黒み)を帯びていたとされ、「粋」な色として親しまれました。
歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」に登場する主人公の助六は、江戸紫のハチマキをしめています。
江戸末期から明治にかけてロッグウッドが輸入されるようになってからは、主にロッグウッドが紫色の染めに使用されるようになりました。
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