江戸時代に流通した主な商品は、米を抜きにして考えると、木綿・菜種・干鰯・酒・材木・藍などが上位を占めました。
江戸時代以前、木綿が大陸からやってきて広がっていくまでは、日本においてイラクサ科の多年草木である苧麻(学名 Boehmeria nivea var. nipononivea)を原料にした布が一般的に生産されていました。
木綿は、戦国時代から江戸初期にかけて、爆発的に普及したとされています。
目次
苧麻が、木綿に取って代わられた理由
日本においては、約1300年前の正倉院御物(皇室の私有品)の衣服に、上布と呼ばれる麻織物が多くみられます。
縄文土器の中から、麻やヤシ科の植物である棕梠が発見されているので、4千年から5千年前から麻が使われていたことがわかります。
特に、日本人が大切にしていた麻が大麻であり、現在でも伊勢神宮のお札は「神宮大麻」と呼ばれていたり、神官が麻を着用したりと、価値あるものとして神聖視していました。
木綿が大陸からやってきて、庶民にも爆発的に普及していく江戸時代以前は、苧麻を原料にした布が、一般的に生産されていました。
苧麻に比べると、木綿は栽培から糸をつむぎ、織物にするまでの全行程を通じて分業がしやすく、原料の段階から流通させやすく、経済性に優れていたことから、急速に日本各地での栽培が広がっていきます。
苧麻の繊維を糸にする作業は苧積みと呼ばれますが、1日で21グラム(6~7匁足らず)ほどの糸しか作れず、平織りしてできる麻の布である上布一反につき、200匁近くの糸が必要だったそうです。
匁は、重さの単位で「め」、または「もんめ」と読み、1000匁が1貫で、3750g(3.75kg)です。
苧麻は、木綿の10倍は手間がかかるとも言われています。
大陸からやってきた木綿に、短期間のうちに苧麻が取って代わられた最大の理由は、苧麻生産において莫大な時間と労力がかかった点でしょう。
品質的な面で言うと、苧麻は生地の非常に丈夫ですが、木綿は保温性にすぐれ、肌触りが良いので身にまとう用途で考えると、機能性により優れていたのは木綿でした。
戦国時代から江戸初期にかけて、木綿が爆発的な普及したとされますが、麻も夏の普段着として変わらずに重用されていました。
日本の綿花栽培・木綿生産が普及した歴史
永原慶二(著)『苧麻・絹・木綿の社会史』の中には、木綿が一般庶民に普及したことを示す文献が二つ挙げられています。
まず、1628年に幕府が出した、「百姓が着るものについて」の定書です。
百姓着物之事 定
一、百姓之着物之事、百姓分之物は布・木綿たるべし、但、名主其他百姓之女房は、紬之着物迄は不苦、其上之衣裳を着候之者、可為曲事者也、
「布」は苧麻布のことで、「紬」はくず繭からとる手ひきの太い絹糸の織物です。
つまり、定書が言っているのは、「百姓が着るものは、苧麻か木綿であるべきだが、名主の農家の女房は、紬の着物まではなんとか認める、それ以上によいもの着る人は変わり者である」というようなことです。
※名主=江戸時代、一村の代表で、村の行政や治安などに携わりまた、農事指導などに当たった者。主に関東での呼び方で、関西では「庄屋」と言いました。
もうひとつの史料が、1643年に幕府が出した「郷村御触」に出てくる以下の一条です。
一、田方二木綿作り申間敷事
※申間敷=すべきではない
田んぼに、木綿を作るべきではないと、禁止令が出ています。
禁止令が出るほどに、稲作よりも高い利益をあげられたのが、木綿だったのです。
『苧麻・絹・木綿の社会史』の著者、永原慶二氏は、上記の二つの史料を踏まえても、木綿栽培と商品化が、17世紀前半ごろの江戸時代の早い時期には、幕府が栽培を問題視しなくてはならないくらいには、広がっていたのではないかと結論づけています。
江戸時代にはすでに比較的温暖な地域である関東や近畿地方では、木綿が日常着となっていたのです。
木綿はいつごろ日本にきたのか
木綿は、まず中国や朝鮮から輸入品としてやってきましたが、実際に木綿を知って使い出したのは、いつ頃なのかをはっきりと示すのは難しいようです。
延暦18年(799年)、崑崙人によって持ち込まれたのが始まりとも言われていますが、栽培技術が未熟であったため、全滅したとされています。
1200年ごろの、鎌倉時代初期には中国から綿がやってきたと推定できる文献はあるそうです。
15世紀に入ると、木綿の実用例が増えますが、まだこの時期は貴族の間でも木綿は貴重な布地でした。
最初に木綿が最初に生産されたのがわかる史料としては、『金剛三昧院文書』におさめられた1479年の「筑前国粥田荘納所等連署料足注文」にあると、『苧麻・絹・木綿の社会史』では書かれています。
送進上之土産事、木綿壱端令賢房へ進之
令賢房という人物に、「木綿壱端」が進上された
この史料によって、木綿栽培が最初に記録されたものであるとは断定できないようですが、1551年の『天文日記』には「唐木綿」と「日本木綿」が書き分けられていることから、室町後期の大永(1521年〜1528)から天文(1532年〜1555年)頃には、すでに日本での木綿栽培が広がってきていたとされています。
木綿が日本各地に普及していく
西は九州の暖かい地域から木綿栽培が始まり、東は関東まで各地で広がっていたようです。
北に行くにつれて栽培の広がった時期も遅く、栽培量も少ない傾向があったようですが、寒い東北地方などでは生育が難しかった点が理由として考えられます。
本州の北端である青森県では、寒冷地のため綿花の栽培ができず、農漁民の日常衣類は苧麻や麻から織り上げた麻布でした。
もちろん、木綿の布や糸は北国にも流通していたものの、貧しい庶民にとっては高価でなかなか手を出せるものではなかったのです。
木綿が青森に本格的に入ってくるのは、明治24年(1891年)の東北本線開通以後であって、沿線から離れた村では、木綿の本格的な普及は昭和に入ってからです。
大正時代初期でも、嫁ぐ際に綿が入っている布団を持っていけるのは稀な方で、木綿の衣類2、3着と麻布の労働着を上下5、6枚持っていくのが普通であったようです。
日常着、労働着は自給自足の麻衣類で、晴れ着として木綿衣があったとも言えます。
麻のようなシャキッとした繊維しか知らない人々が、木綿を初めて手に取ったときどのようなことを思ったでしょうか。
糸の柔らかさと温かみにさぞかし驚き、また憧れたのでしょう。
布を大事にせざる得ない時代があったというのを、今着る物に溢れる時代の私たちも理解しておく必要があります。
木綿が日本に渡ってきた歴史や、その後の主生産地の集中などをより具体的に知りたい方はぜひ、『苧麻・絹・木綿の社会史』を読んでみてください。
【参考文献】永原慶二(著)『苧麻・絹・木綿の社会史』