日本における化粧の色合いと歴史。古典的な赤く塗る化粧と、白く塗る化粧に使用された化粧料の素材について


化粧の原型は、顔や身体への彩色さいしょくと言われています。

体に色を塗っているアフリカの部族を映像で見たことがある人もいると思いますが、古くは部族や階級間の差別化や、色がもたらす呪術じゅじゅつ的な目的のために彩色さいしょくが行われていたと考えられているのです。

Karo Woman at Korcho. (in explore) - Flickr - Rod Waddington

Rod Waddington from Kergunyah, Australia, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons,Link

日本における化粧の色合いと歴史

染料や顔料がんりょうの使用目的について、上村六郎(著)『東方染色文化の研究』には、まず薬用効果が前提としてあり、そこから色を獲得してきた目的について3点挙げています。

上代じょうだいにおける色料使用の目的は、これを要するに次の三つの方面に分けて考へることが出来ると云う結論に到達するのである。すなわち第一は呪的の意味をもっているもの、第二は識別をする手段とするもの、第三は装飾の意味を有するものの三つである『東方染色文化の研究』

上代じょうだいとは日本史上の時代区分のひとつで、日本の文献が残されている飛鳥時代後期から奈良時代(600年~784年)を指します。衣類に対する染色も、身体や顔に対する彩色も、元々はただの装飾のためだけではない、ということです。

日本における化粧の歴史は、中国文化の影響を受けた「赤く塗る化粧」の時代から、その後「白く塗る化粧」の時代があります。

第二次世界大戦後に、欧米の化粧の仕方を真似た「現在の化粧」へと変化してきたのです。

古典的な赤く塗る化粧

日本における化粧の原点である赤化粧は、奈良時代に仏教文化とともに、化粧料の作り方が中国から伝わってきたことがその始まりと考えられています。

古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)につくられたものとされる埴輪はにわには、赤の化粧が施されているものもあり、その頃には日本においても顔を赤く塗る文化があったことが推測されます。

埴輪 巫女-Haniwa (Clay Sculpture) of a Female Shrine Attendant MET 2015 300 255 Burke website

埴輪/Haniwa/Metropolitan Museum of Art/CC0/via Wikimedia Commons,Link

赤い色は、人々の生活に密着したもっとも基本的な色とも言え、赤色は危害を避けるために使用されたという歴史があります。

赤小豆あずきや赤飯を食べたり、赤い着物を子供に着せるのも、古くは魔除けとしての意味があったとされています。

現代でも、その古典的な赤を用いた化粧の名残があります。以下、『色彩から歴史を読む』からの引用です。

日本における赤化粧は神事との関連が深く、たとえば出雲いずも美保みほ神社に伝わる青紫垣神事あおふしがきしんじでは、額と頬に赤で丸く彩色する古典化粧の名残を見ることができる。

また一部の地方では厄除けや健やかに育つ願いを込めて、稚児ちごの額に赤く彩色する習慣が残っていたり、同じような意味合いから、宮参りの時に子供の額に赤く彩色する「アヤッコ」として継承されている。『色彩から歴史を読む

古く、赤い色は、「赤土せきど(あかつち)」「しゅ」「べに」によって獲得されました。

赤土(せきど)

赤色の酸化鉄が主な成分の土であり、化粧だけでなく火傷の治療のためにも使われました。

酸化鉄の一種であるベンガラは、現在でもファンデーションなどの化粧下地の着色料として使われています。

朱(しゅ)

硫酸水銀りゅうさんすいぎんを主な成分とし、中国では不老不死の薬として用いられ、卵白と混ぜたものは塗り薬や化粧品としても使われました。

紅(べに)

紅は、キク科の植物である紅花の花びらに含まれているカルサミンという紅色色素を集めたものです。

古くから、紅を使った代表的な化粧料は頬紅ほおべにでしたが、口紅としても使用されました。

現在でも赤色の色素として、京紅などの伝統的な化粧料や高級化粧料に使用されることがあります。

関連記事:染色・草木染めにおける紅花。薬用効果や歴史について

白く塗る化粧

白粉おしろいとは、「御白い」の意味で、肌に塗って皮脂分泌を抑え、肌色を美しくみせ、シミなどを隠す仕上げ用の化粧品として使用されてきました。

現代でも古典的な白化粧の名残としては、京都の舞妓まいこさんがイメージしやすいでしょう。

女性が顔に白く化粧を行う文化は平安時代にはじまり、外国との積極的な交流が始まる明治維新から大正時代くらいまでの、約1000年にも及ぶ間続きました。

No. 9 Echigo 越後 (BM 2008,3037.02107)

歌川国芳/山海愛度図会 身まゝになりたい/British Museum/Public domain/via Wikimedia Commons,Link

日本においてもっとも古い記録としては、『日本書紀』(720年)に、とう(中国の王朝)にならって初めて「鉛粉」を作ったとあります。

平安時代にまとめられた三代格式さんだいきゃくしきの一つである『延喜式えんぎしき』(927年)には、もち米の粉を用いたことが記述されています。

平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう(和名抄)931年~938年頃成立』には、鉛白を「之路岐毛能(シロキモノ)」、米粉製のものを「波布邇(ハフニ)」としています。

平安時代になり、中国文化の影響が薄れてきたこと、基本的に暗い部屋のなかで顔をきれいにみせるためには白が映えるということで、白化粧が盛んになったと考えられています。

「色の白いは七難隠す」ということわざにあるように、肌の色が白ければ、少しくらいの欠点は隠れて、美しく見える白化粧は江戸時代にも一般化していました。

江戸時代末期ごろから「紅白粉」、明治時代から「肉色白粉」など、有色の白粉も用いられました。

白が意味することについて、『色彩から歴史を読む』には以下のような記述があります。

白の意味するところは、清浄、潔白、高貴、神聖などであり、多くの宗教圏と文化圏で共通性がある。神話に登場する神、天使、仙人、聖職者などの衣装の多くは白であり、日本でも神主や巫女の衣装は今でも白である。

また白鳥や白馬などのように白を冠した多くの動物が神聖な生き物として特別なものとする考えは、今でも世界中の多くで語り継がれていることである。『色彩から歴史を読む

白色に対するイメージやその意味が、古くから世界中で多くの共通点が見受けられるというのは、非常に興味深いです。

白色の化粧料は、白土、穀粉こくふん、貝殻粉、軽粉けいふん鉛白えんぱくなどが使われました。

白土(はくど)

天然の白い粘土である白土はくど(カオリン)を原料に、水の中で不純物を除去しながら、粒の大きさにばらつきがないよう粒度調整し、白色顔料が作られました。

白土はくど(カオリン)は、含水ケイ酸アルミニウムが主成分であり、中国に高嶺(Kaoling)という山地で産出される粘土が、古くから中国の陶磁器の原料として使用されていたことが「カオリン」とも呼ばれるその名の由来とされます。

現在でも、白土はくど(カオリン)は白粉おしろいや化粧下地として使われることがあります。

穀粉(こくふん)

穀物をいて作った粉、古くから主に米粉こめこ白粉おしろいとして使用されていました。

こなという漢字は、「米」を「分ける」と書きますが、そもそも「粉」という一文字で「おしろい」とも読まれていたそうです。

白粉おしろいには、米粉よりも細かくて肌当たりが良く白さも優れているデンプンの粉など、さまざまな原料が使われていました。

キカラスウリの根からとれる天花粉てんかふんも、古くから 白粉おしろいに用いられてきました。

軽粉(けいふん)

軽粉けいふんは、古く中国から伝えられた塩化水銀が主成分の白色の粉末です。

室町時代には、日本でも生産され、大流行した梅毒ばいどくの薬として、また白粉おしろいとしても使用されていました。

鉛白(えんぱく)

鉛白えんぱくは、紀元前4世紀にギリシャの「テオフラス」が発明したとされ、これは長期間用いると肌を黒くし、若死させる原因になりましたが、白色効果が優れるため、近代まで使用されていました。

塩基性炭酸鉛えんきせいたんさんなまりの白い顔料で、江戸時代中期になって日本では需要が拡大しました。

その背景としては、安価であったこと、白粉おしろいを塗る面積が胸元や背中に至るまで増えたことや、役者や芸者、遊女などの化粧法が、一般庶民にまで普及したことが考えられます。

ただ、鉛白えんぱくを塗った母親の乳房からの授乳による鉛中毒なまりちゅうどくによって、多くの乳児が死亡した例があり、日本では1934年に健康に害があるなまりを使用した白粉おしろいの製造が禁止されています。

化粧分野においても、明治維新の近代化の波が押し寄せる

明治時代にはいってから、化粧分野においても近代化の波が押し寄せ、欧米からは化粧品と化粧文化が日本に入ってきました。

化粧品は、輸入されて来たのはいいものの、高価なものであったので、すぐに一般に広まるまでには時間がかかりました。

明治末期になると、欧米の輸入品を真似した化粧品が販売されましたが、塗った色はそのほとんどが白色でした。

明治時代は、まだまだ多くの人が伝統的な白粉おしろいを基本とした化粧をおこなっていたと言えます。

資生堂の七色粉白粉

1917年(大正6年)に、資生堂が「白色、ばら色、ぼたん色、肉黄色、緑色、紫色」の配色の「七色粉白粉」を発売しました。

日本で初めてのカラー白粉であり、化粧は白いものと考えていた当時の人々を大変驚かせることになりました。

どう使用すれば良いかわからないものを買って使ってもらうには、顧客を教育する必要がありますが、資生堂は顔色に対応させて、色の使い分け人々に提案していました。

色の白い人に—–肉黄色、ばら色、黄色
色の青い人に—–ばら色、ぼたん色
色の黒い人に—–紫色、黄色、ばら色、ぼたん色
色の赤い人に—–緑色、肉黄色 引用:『色彩から歴史を読む』

七色粉白粉という名前通り、白粉を基本としていたので、色といっても薄く色づく程度であったようです。その後、大正から昭和初期にかけて、服装や髪型の洋風化が進みますが、まだ白粉が主流でした。

第二次世界大戦後、急速に欧米文化が影響を強め、近代的な化粧が急速に広まりました。科学技術の進歩とともに、化粧品分野の製造技術も飛躍的に高まっていきました。

【参考文献】

  1. 上村六郎(著)『東方染色文化の研究』
  2. 色彩から歴史を読む

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