青縞と呼ばれる藍染された布は、埼玉県の北東部に位置する加須市や羽生市を中心に盛んに織られていた生地です。
青縞と呼ばれる理由としては、綿糸を藍染し、染め上がった糸を織ると、染めムラが独特の縞模様に見えることからその名前があります。
青縞は、仕事着である野良着や股引、脚絆、足袋などに使用され、江戸時代は主に農家の副業として青縞が生産されていました。
天明年間(1781年〜1789年)に北埼玉郡騎西町付近(現在の加須市)で農家の副業として織られたことから、この土地の名前に由来し私市縞と呼ばれたようです。
明治以降は織物をつくる事業家(機業家)によって、生産、発展してきました。
元々は、天然藍のみが使用されていましたが、明治30年(1897年)頃からは、化学藍(インディゴピュア)が使用され始めました。
埼玉県における藍の栽培と藍染
埼玉県でも江戸時代から藍の栽培(藍作)と藍染が行われており、明治初期には阿波藍に次ぐ全国第2位の生産高を誇っていました。
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藍の葉っぱを栽培し、乾燥、発酵させてできた原料を蒅といいますが、蒅をそのまま出荷する場合と、臼でつき、固めて「藍玉」にして出荷する場合がありました。
藍玉は、玉藍や、ただ「玉」とだけ言ったりもしたようで、もともとは球体に固めていたことから藍玉の名前があります。
藍玉にすると輸送効率が上がるため、遠くに輸送する場合は藍玉にして、近くで消費する分は、蒅の状態のままにするなどの区別があったと考えられます。
江戸時代、現在の徳島における阿波藍は、蒅の状態ではなくほとんどが藍玉の状態で取引され、蒅は幕末期に大阪で若干売買されていた程度で、藩の方針として蒅そのままの状態の市販を原則禁止していたのです。
理由として、建前上、他国(国内の別の藩)の藍と混合されてしまうと信頼を失う恐れがあるからとのことだったようですが、実際には蒅の状態で輸送するより藍玉の方が利益が多く、藍に砂を混ぜて藍玉にしていたことなどが主な理由です。
東京地方では、阿波(徳島)の藍玉を「團子玉」、尾州(愛知)のを「角玉」、武州(埼玉)のを「丸玉」とも呼んだようです。
武州藍は、大型の鏡餅の様だったともいわれます。
武州での葉藍や藍玉の生産は、藍栽培に適さない埼玉県西部の山地あたり(秩父郡)を除いて、ぼぼ全域で行われており、なかでも北部の榛沢郡(深谷・本庄)が全体の4割ほどを占めていました。
渋沢栄一と藍づくり
現在の埼玉県深谷市は渋沢栄一(1840年〜1931年)が生まれた地で、彼の生まれ育った家も藍づくり農家でした。
家業で、藍玉の製造販売に従事し、上州(現在の群馬県)や信州(現在の長野県)などに出張していたのことがよく知られています。
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渋沢家の藍俵には、「青淵」「藍香」といった商品名がついていました。
彼の住んでいた家の近くを流れる利根川の沿岸の土壌が藍の栽培に適していたことに加えて、一大消費地域であった江戸に出荷するのが簡単であったため(船で運ぶ)、このあたりの土地で藍栽培が盛んでした。
民俗学者であった宮本常一(1907年〜1981年)(著)『塩の道』には、藍の栽培適地について下記のような記述があります。
蓼藍というのは、砂地で作ることが多いのです。藍は根がぐうっと深く入るし、しかも土がよく肥えているところでないと育たない。これの栽培できる土地というのは、たいへん限られていたのですが、徳島県がその適地であったわけです。そして盛んにここで作られるようになります。
関東では深谷の北、利根川べり、そこに同じような土層があります。そこで作られるようになる。渋沢栄一という人は、その藍商人の家に生まれて、若い時には藍の行商で信濃のほうまで旅をしています。あのあたりで作られていたわけです。ところが関東の藍の適地というのはたいへん狭かった。そこで徳島が日本でもっとも大きな産地になってきます。宮本常一(著)『塩の道』
吉野川流域の徳島と同じように、大きな川が流れている地域の川沿いは、古くは藍の栽培には適している場所だったのです。
現在、深谷市は「深谷ねぎ」の生産でも有名ですが、ねぎの根っこが深く入りやすい土壌であるということがこのことからもわかります。
【参考文献】
- 『日本の色彩 藍・紅・紫』
- 宮本常一著『塩の道』
- 『阿波藍譜 史話圖説篇』