銘仙は、群馬県の伊勢崎が有名で、「銘仙といえば伊勢崎」というほど、全国的に知られていました。
銘仙は、平織りの絹織物の一種で、目専、目千、銘撰とも書かれ、「銘仙」の字を当てたのは明治時代以後となります。
銘仙(めいせん)とは?
古くから現在の群馬県の伊勢崎地方では、太織と呼ばれる絹織物が、農家の自家用織物として織られていました。
江戸時代後期の文化・文政(1804年〜1830年)の頃になると、盛んに織られるようになり、太織縞の市が立つようになり、利根川を利用して船で江戸へも出荷されていました。
銘仙の由来は、この太織縞についての文献に、「専ら織り目が堅牢を主とすること」から「目専」と呼んだと記されていることから、銘仙とは、目専の語呂合わせからきた言葉だといわれています。
当時の織物は、経糸に絹糸を用い、緯糸に玉糸を用いた縞織物で、庶民向きの大衆衣料でした。
玉糸とは、2匹の蚕が一緒に1つの大きい繭を作る事があり、これを玉繭と言い、玉繭から製糸した生糸が玉糸です。
明治時代に入ると、銘仙と称して絣が織られるようになり、特に伊勢崎の珍絣の名前は全国的に有名になり、伊勢崎銘仙の全盛期を迎えました。
これにともない、各地の織物産地でも急激に人気となり、埼玉県の秩父や栃木県の足利、東京の八王子や山形県の米沢などでも織られるようになったのです。
戦後は、衣生活の変化やウールや化学繊維の出現などによって、需要が減り、銘仙の生産が衰退していきました。
銘仙の技法
銘仙が発達するにつれて、絣の技法も次々と考案され、「併用絣」、「緯総絣」、「解絣」、「珍絣」などが生まれました。
「併用絣」は、整経した経糸を、何枚もの型紙を用いて捺染し、緯糸も特定の板に巻きつけて、型紙で捺染し、これを織り上げたもので、大柄で派手な色合いが主になります。
「緯総絣」は、緯糸のみ絣糸を使用したもので、併用絣ほど多彩ではなく、3〜4色で模様の濃淡を表現したものです。
「珍絣」は、縛り技法と板締め技法の2種類があり、縛りは、糸を原図によってところどころ捺染してから、捺染した部分を紙で覆い、糸を堅く縛って釜に入れて染色します。
板締めは、板に彫った溝を糸の束に対して、直角に両面から当てがい、締め付けて染色します。
板の両面の凸部分は、糸が圧迫されて染料が染まらず白く残り、これが絣となります。