1602年、オランダが「東インド会社」を設立し、インドネシアのジャワを拠点に、明や日本と交易を開始します。
この頃になってヨーロッパの文明が、島国の日本に影響を与えるようになるのです。
江戸時代に海外との交易拠点となっていた平戸や長崎にあったオランダ商館歴代館長が記した公務日誌『オランダ商館日記』には、数々の染織品の記載があります。
永積洋子(著)『平戸長崎オランダ商館日記(全4冊)』に記載されている染織品には、以下のようなものがあります。
- 天鵞絨(ビロード)
- 羅紗(ラシャ)
- 花毛氈(はなもうせん)
- モール
- ゴロフクレン
- ジャバ敷物
- 金襴(きんらん)
- 緞子(どんす)
- 紗綾
- 繻子(しゅす)
- 縮緬(ちりめん)
- 綸子(りんず)
- 羽二重(はぶたえ)
- 麻
- 更紗(さらさ)
- 唐桟(とうざん)
- ギンガム
『平戸長崎オランダ商館日記』以外の、具体的な資料としては、長崎出島の切本帳(切本帖)があります。
切本帳(きれほんちょう)とは
切本帳(切本帖)とは、輸入された織物(反物)のハギレを貼って帳面に仕立てたものです。
寛永(1624年〜1644年)の頃、長崎奉行所の配下に設けられた、伽羅目利(香木に精通した役人)、鮫目利(刀の柄や鞘の部分を巻く鮫皮に精通した役人)、端物目利のうち、染織品は、端物目利が担当しました。
今日に残る、切本帳(切本帖)は、役人側のものと、長崎、京都、江戸などの商人側で作成したものがあり、商人側が作ったものには、品名や値段、数量や売り先、裂の色などが記されています。
江戸時代末期ごろの切本帳(切本帖)には、更紗や羅紗、唐桟(奥嶋)の記載が多いようです。
江戸時代中期以降に舶来した数々の縞織物は、当時の農民階級の木綿地の普及とともに広く模様に取り入れられ、「切本帳」と同じように、縞織物の見本帖である「縞帖」が人々に作られるようになります。
関連記事:縞帖とは?縞帖の特徴から時代の変化を読み解く(手紡ぎ糸から紡績糸へ、天然染料から化学染料へ)
「縞帖」は、当時の女性たちが、織り上げた縞織物の裂を貼り付けた見本帖で、大切に扱われていました。
オランダ商館と交易船の来航
元亀元年(1570年)に、長崎が外国との交易港として開かれ、慶長14年(1602年)に平戸にオランダ商館が設置され、中国やポルトガル、オランダの交易船が次々と来航しました。
諸大名や豪商達にとって、舶載品の数々を保有することが一種のステータスシンボル(社会的地位や身分を象徴するもの)となっていました。
渡来した茶碗や茶入を用いて、中国の喫茶の習慣を「洗練させた茶道」へと昇華させていく反面、それらの渡来品が一国と比較されるような権力抗争をも引き起こすのです。
豊臣秀吉を朝鮮遠征に駆り立てたのも、このような飽くなき富と権力の追求によるものと考えられます。
文禄元年(1592年)から慶長三年(1598年)にかけ、豊臣秀吉が明の征服をめざして朝鮮に侵略した戦争を表す「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」で、朝鮮に出陣した九州の諸大名は、帰国に際して朝鮮の工人達を連れて帰ります。
九州の陶器(豊前の上野焼、筑前の高取焼、肥前の唐津焼、肥後の八代焼、薩摩の薩摩焼など)は、このような工人たちの努力と工夫によって誕生し、藩の保護を受けながら産業として発達していったのです。
【参考文献】
- 永積洋子(著)『平戸オランダ商館日記―近世外交の確立』
- 「刀と鮫皮の関係」