平安時代になると、文学的で優美な色名が誕生します。
「王朝の色」とも呼ばれる重ね染めを巧みに駆使しながら生まれた優雅な色彩が、元々は大陸からきた文化の影響から離れて、日本独自に発達していきました。
地位や身分を示す色を「位色」の規制は名目上存在してはいますが、次第に実質的には何の意味もなさなくなり、女性の装束に代表されるような日本独自の繊細で美しい色彩文化が平安時代に花開くのです。
平安時代の染織品は、現在ほとんど見ることはできませんが、この時代が残した美の意識や色彩が文献の随所にあらわれており、その美の創造性を高く評価することができます。
平安時代の色彩
平安時代の染織遺品は非常に少なく、日本で製作されたことが確実なものとなると、中尊寺の藤原三代の棺から発見された錦類や、四天王寺の懸守、神護寺の経帙などがあります。
平安時代の色彩における空白を埋める文献としては、『延喜式』の「縫殿寮」や「雑染用度条」、平安時代後期の物語絵巻などの、彩色画の中の衣装の色が参考資料となります。
平安時代末期に編集された歌謡集である『梁塵秘抄』には、当時の色彩について以下のような内容の歌謡があります。
武者の好むもの、紺よ、紅、山吹、濃き蘇芳、茜、寄生樹の摺、良き弓、胡簶、馬、鞍、太刀、腰刀、鎧、冑に、脇立、籠手具して。『梁塵秘抄』
上記の記述は、『伴大納言絵詞』や『平治物語絵巻』に登場する武者たちであり、この色名も鎧の威毛(鎧の札をおどした糸や革)、鎧直垂の色彩に対応しています。
『源氏物語絵巻』の上﨟(地位・身分の高い人)の装束が華麗な色彩で描かれているところをみても、平安時代も奈良時代の唐風(からふう)とは違いますが、貴族のあいだにおいては、華やかな色彩があふれていたとも考えられます。
重ね着の配色美である襲色目(かさねいろめ)
主に女性の重ね着の配色美を襲色目といい、その色合いと調和は、常に四季の草花や自然の色などに結びついていました。
無地の色の着物を重ねて着る場合に、表の着物の色と裏の着物の色を、どのように取り合わせるとよく調和するかということについて、あるルール(規定)を設けて、その取り合わせを「山吹」や「紫苑」などという名称をつけ、誰でも良い配色の着物を重ねて着ることができるようにしたものです。
例えば、山吹と称する襲色目は、表が黄色で裏が緑であり、この方法に則って着物を着重ねれば、美しい調和になるというわけです。
襲色目の名称は数十種類もあり、時代によっても色の取り合わせ方に違いがあったりしました。
平安時代に生まれた女性の十二単も、色を重ねることによって季節感を表現した代表的な衣装です。
色名として、紅梅・桜・山吹・卯の花、柳・撫子・朽葉・枯野などが登場しますが、染色に使用する素材そのものの名前ではなく、そこから連想されるイメージが色名になっています。
自然から連想される色名に空色や水色があり、どちらも平安時代にまで遡れる古い色名で、土色や草色などもこの分類に入ります。
平安時代の染織品は、現在ほとんどみることはできませんが、この時代が残した美の意識、美しかった色彩が文献の随所にあらわれており、その美の創造性を高く評価することができるのです。
平安時代の染料植物
平安時代の延喜5年(905年)に編集がはじまり、延長5年(927年)に完成した『延喜式』には、当時の「位色」に用いられていた色名と染色の材料が記載されています。
染料の使用量や媒染剤まで詳細に記録されているため、当時の色彩を知る上では非常に貴重な資料となっています。
『延喜式』に記載されている染料植物には、以下のようなものがあります。
- 韓紅花・・・紅花
- 中紅花・・・紅花
- 退紅・・・紅花
- 深蘇芳・・・蘇芳
- 浅蘇芳・・・蘇芳
- 浅緋・・・茜
- 緋・・・茜
- 深紫・・・紫草
- 浅紫・・・紫草
- 深滅紫・・・紫草
- 深緋・・・茜と紫草の重ね染
- 黄支子・・・支子(梔子)
- 黄丹・・・支子と紅花の重ね染
- 深黄・・・刈安
- 浅黄・・・刈安
- 深縹・・・藍
- 中縹・・・藍
- 浅縹・・・藍
- 深緑・・・藍と刈安の重ね染
- 浅緑・・・藍と黄檗の重ね染
- 黄櫨・・・櫨と蘇芳の重ね染
- 橡・・・カシ・ナラガシワ・クヌギ
ただ、平安時代のような美しい色彩は、もっぱら貴族や宮廷用であり、一般庶民にはまったくの無縁でした。
一般に色彩が解放されたのは、鎌倉時代以降であるとされています。