和綿が衰退した歴史。産業の近代化の波に飲まれ、輸入綿を原料に、和綿が切り捨てられる


木綿(cotton)は、16世紀には日本国内での栽培が広まっていき、17世紀初頭ごろには飛躍的に発展していきました。

木綿は庶民の日常的な衣服となり、江戸時代の経済と政治において、一貫して重要な役割を果たしていました。

しかし、明治維新を経て、殖産興業しょくさんこうぎょう政策のもとで、決定的な打撃を受けることになります。

殖産興業しょくさんこうぎょう政策とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進したさまざまな政策のことを指します。

明治政府は、産業の近代化を「輸出振興」「輸入防遏ぼうあつ」という国家のスローガンを掲げ、輸出輸入の両面から綿業は、中核的戦略産業として位置づけられました。

外国の質の高い綿糸や綿布に負けないように、綿業の近代化は国家的な課題とされていたのです。

イギリスの紡績機械と工場生産を導入するも大きな壁が

黒船来航を経て、日米和親条約(1854年)を締結し日本が開国します。

安政あんせい5年(1858年)に「日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく」が締結されると、日本の経済に大きな変化が生まれました。

後に、同じような条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びます。

イギリスは、大量のインド綿を輸入してきたため、良質で安価なインド綿に対抗できない国産綿は、瞬く間に大きな打撃を受けました。

明治時代に入り、政府は当初、国内の木綿を原料に、産業革命をいち早く達成したイギリスの綿糸紡績機械と工場生産を導入して、国内綿業の発展を目指しました。

しかし、イギリスで使用されていたインド綿の種類と日本の和綿の特徴の違いから、明治政府が殖産興業しょくさんこうぎょうの政策のために創設した工場(官営模範かんえいもはん工場)として成果をあげられないまま、民間に払い下げられます。

中国、朝鮮から日本にきた綿はデシ綿と呼ばれ、繊維が太くて短く、ふとんや脱脂綿等には適していましたが、機械紡績には繊維が合わなかったのです。

輸入綿を原料に、和綿を切り捨てる

綿業の近代化の担い手となった資本家たちは方針を転換し、インドや中国の輸入綿を原料に、国産の和綿を切り捨てる方針を選択しました。

それから約10年に渡って、国内の綿生産者と資本家の争いがくりひろげられ、当時開設された帝国議会が議論の舞台となりました。

結果として、1896年に、帝国議会は綿花輸入関税の撤廃を議決し、これが転機となり、国内の綿作は数年足らずで消滅したとされます。

かつて農民の手に、日本の経済史上はじめてといっていいほど利益をもたらし、人々に上昇の夢を与えた綿業の歴史はここに幕を閉じたのです。

その後、資本主義的綿業が軌道に乗り、「輸入防遏ぼうあつ」を達成したばかりか、中国・朝鮮に輸出するまで発展したのです。

当時、稲作だけに従事せざるえなくなった綿業従事者は何を思ったでしょうか。

いつの世も、時代の流れには逆らえません。当時の人々に思いを馳せながら、今私たちがどう生きるべきかなど、考えさせられます。

【参考文献】永原慶二(著)『苧麻・絹・木綿の社会史


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