初版が1993年に発行された岡本太郎(著)『自分の中に毒を持て』は、人生において大切だと思えるエッセンスがたくさん詰まった本です。
不器用で下手な素人のものづくりには価値がある
岡本太郎は芸術家でしたが、「ものづくり」に関しても、本書にて言及しています。
ものづくりに関わる人でも、そうでない人にとっても示唆に富むことが書かれています。
以下、『自分の中に毒を持て』からの引用です。
近頃、手づくりのよさが見直され、とりわけ若い人々が“本もの”にこだわっているようになってきている。着るもの、食べるもの、考えることまで大量生産の機械文明にふりまわされてもううんざり。ようやくその空しさに気がついて、何かをとり戻そうとする動きだろう。健全だし、よいことだ。
しかし、手づくりのよさというとき、たいてい、職人さん、器用な人たちの作った精巧なものを考えてしまうようだ。しっかりとした技術、ていねいな仕上り。そういうものに驚きとよろこびを感じることもわかる。
だがぼくはこれにいささか不満である。むしろ下手な、不器用な、素人の手づくりの方がいいと思う。その方がずっと人間的に身近な感じをおぼえるし、見ていると夢がひらくからだ。あんまり器用に出来上がったものは冷たくて、何か自分の外っ側にあるような気がしてしまう。それは自分ではとうてい作れないもの、つまり本質的には自分から離れたものであるからだ。
今でこそ、手で作ったというだけで人間性を象徴しているように思われ、機械の対極に置かれるけれど、昔、手づくりしかなかった時代、職人の仕事は機械製品のようなものだったのだ。機械のように正確に、熟練した器用な手がロクロを廻し、木を削った、となると機械も手づくりも結局変わりない。
いわゆる職人芸は階級社会の中で狭く枠づけられている。誰もが自由に携われるものでもないし、ひらかれた技術ではない。専門家だけのものになってしまっている。しかも秘伝とか秘法とかいって、嫉妬深く職人上の聖域を作って、素人をしめ出している。そして作られたものは商品となり、とりわけ精巧で優れたものは権力や富を持った人だけが手に入れられることが出来、貧しいものには関係なかったのである。
現代でも一見立派に作れれた美術工芸品など、驚くほど高価で、一般人とは離れたものになってしまっている。これは職人芸の枠を受け継いだ、人間疎外のコマーシャリズムである。
そういう年季の入った特殊な技ではない、まったく素人、下手なのが平気で作ったものに、「手づくり」の本当のよろこび、人間的なふくらみがあるはずだ。
つまり手づくり、手で作るというのは、実は手先ではなく、心で作るのだ。生活の中で、自分で情熱をそこにつぎ込んで、ものを作る。楽しみ、開放感、そして何か冒険、つまり、うまくいかないのではないか、失敗するかもしれない、等々いささかの不安をのり越えながら作る。そこに生きている夢、生活感のドラマがこめられている。心が参加し、なまなましく働いていることが手づくりの本質だと言いたい。
職人さんの馴れた手が職業的にパッパッと動いて作り出すもの。手の方が先に、鮮やかに動いてしまう。従って、よく出来ていても本当の自由感、生活感はない。
だから手づくりは決して器用である必要はないのだ。とかく素人は玄人の真似をしようとして絶望し、私は不器用だからとても、などと言って尻込みしてしまう。子供の時には誰でも平気で作ったのに。大人になると、みっともないと自分で卑閉めてやめてしまう。
とんでもない。むしろ下手の方がよいのだ。笑い出すほど不器用であれば、それはかえって楽しいのではないか。平気でどんどん作って、生活を豊かにひらいていく。そうすべきなのである。以外にも美しく、うれしいものが出来る。
それが今日の空しい現代社会の中で自分を再発見し、自由を獲得する大きなチャンスなのだ。
ものづくりというと、その道のプロがやるもので、素人には入ることができない領域のように感じますが、下手で不器用な素人の手づくりにこそ良さがあると、岡本太郎は指摘しています。
ものづくりに限らず、どんな仕事においても小手先の技術ではなく、本質的には心をこめて仕事をすることに、価値があるのかもしれません。
無心になってものづくりをする。下手でもいいから、とりあえず作ってみる。
岡本太郎氏が指摘したように、何かをつくりだすことが、「自分を再発見し、自由を獲得する大きなチャンス」なのかもしれません。
【参考文献】岡本太郎(著)『自分の中に毒を持て』