兼房染とは、黒梅染のことをいい、加賀染(加賀御国染)ともいわれていました。
黒梅染とは、紅梅の樹皮や根を煎じた汁で染めたものやその色の中でも、特に赤み黒ずんだ茶色のものを指していいます。
黒梅染の染色技法
梅染には、二種類あり、梅の木の煎汁に灰汁、または石灰を媒染剤として染めた茶色と、鉄媒染による黒味のある梅染が知られています。
黒味のある梅染が知られたのは、歴史的には茶色の梅染よりもやや後で、 加賀藩初代藩主の前田利家の時代に、加賀で発明されたと考えられます。
これを後に、御国染といったようで、染料として梅の木以外にも榛の木(ハンノキ)の皮も併用していたと考えられます。
黒梅染は、室町時代初期ごろから江戸時代初期ごろに渡って有名になった染色技法と考えられています。
江戸時代中期の正徳2年(1712年)に完成した百科事典である『和漢三才図絵』にも、加賀と特産として紹介されています。
関連記事:染色・草木染めにおける梅(うめ)。梅の染色方法や薬用効果について
兼房染とは?
享保元年(1716年)以後の兼房染は、藍で下染したものに、山漆の葉を煎じた汁をカネで媒染するようになります。
媒染に用いるカネは、不要になった刀を用いていたので、武士の間では、兼房染の羽織は敵に切られても手傷を負わないと信じられ、兼房染が流行したようです。
兼房染は元は吉岡染と言って、桃の樹皮とカネとで黒茶色に小紋を染めたものをいいました。
吉岡染は、京都の吉岡憲法が初めて染め出したものといわれ、憲法の字は、建法、拳法、兼房とも書きます。
吉岡憲法の通称は、仁右衛門といいました。
松江重頼(1602年〜1680年)によって1638年に出版された俳句に関する書物である『毛吹草』には、日本各地で生産されていた織物や染物が記載されていますが、「山城名物」として「吉岡染憲法染」とあります。