紅花(学名:Carthamus tinctorius)は、キク科ベニバナ属で花弁を植物染料にします。
秋に種をまいて、冬を越して春になってから開花、結実してから枯れる越年草(二年草)として生育したり、寒い地域では一年草として春早い時期に種をまく場合もあります。
紅色の染料としての用途のみならず、食用油の原料としても栽培されています。
目次
染色・草木染めにおける紅花(べにばな)
茎の高さは約1メートルぐらいになり、緑色の葉っぱにはトゲがあります。
6月〜7月上旬ごろ、枝先には多数の黄色い花びらが集まって筒状付になっている花(管状花)が咲きます。
日が経つと花は赤色に変化していきますが、染料にするためには、わずかに赤色に変わり始めたことを見計らって花を摘み取ります。
紅花の収穫から紅餅・花餅づくり
紅花栽培で最も手間がかかるのが花摘みであり、摘花期の約2週間に労働が集中していました。
花摘みに慣れた人が、早朝3時半に起きて太陽の昇る9時までの間で収穫できる量は、生花で約1kgであり、最盛期には日中も作業を行いますが、平均すると1日1kgの生花を摘むので精一杯なのです。
紅花一輪は、生花で約3g〜3.5gほどで、花弁のみだとわずか1gほどです。
乾燥すれば花弁の重さは、0.1gほどになってしまうため、紅花のシーズンが約2週間とすると、ひとりの収穫できる乾燥花の量はたった、1.4kgほどです。
栽培面積に対する一般的な乾燥花の収量は、10アール(一反=992㎡)あたり10kgほどです。
摘み取った花は、赤と黄色の色素が含まれているため、水で揉みながら黄色色素を洗い流します。
水洗いは、染色の際に黄色味が強くなるのを防ぐために行います。
花を藁でできた筵の上に3センチくらいの厚さに広げて、その上からまた筵を被せて一晩放置します。
時間が経つと花が発酵し、黄色だった花も赤い花に変化してきます。
花を臼に入れて挽き、粘りが出てきた時に3センチぐらいの大きさの小さいお煎餅のように形づくり、天日干しして乾かします。
しっかり乾燥したものは、紅餅や花餅と呼ばれ、保管することができます。
含有する紅色素の量は、紅餅の重さの0.5パーセントとされ、紅1gを採取するためには紅餅が200g必要とするとも言われます。
「紅1匁(1匁=3.75g)は金1匁と同じ」と昔から言われているほど、紅花から採取できる紅は貴重であったのです。
紅餅への加工は、江戸時代の元禄期以降とされ、それ以前は紅花の花弁を自然乾燥させたものが染色に用いられていたと思われます。
紅染めの特徴
紅花染は、非常に退色しやすいという特徴があります。
紅花で薄色を染める場合は色落ちしやすく、紅花に含まれる紅色素の量も非常に少ないため、できる限り何回も染め重ねて堅牢度を高くしていくことが基本となります。
赤に染める茜染で染められたものと比較しても、紅花は堅牢度がよくないので、薄色はさけ、できるだけ濃い色にするのが大切なポイントなのです。
見方を変えれば、すぐ色あせてしまうからこそ魅力があり、今この瞬間の色を楽しむことができるとも言えます。
古い時代の衣装は現存しておらず、安土桃山時代(1568年〜1600年)の小袖などが最古の紅花染として伝えられていますが。染められた当初の色はほとんど残っていません。
紅染は、灰汁などのアルカリによって抽出された紅色素に、酸を加えて紅を発色させ、布や糸に染め付けます。
濃い色から薄い色まで、色の名称がさまざまあり、韓紅、濃紅、紅、薄紅、朱華、退紅、鴇色と濃度と共に名前も変わっていきます。
色味としては、すべて黄色味が少し混ざった赤色となります。
染色のタイミングは、冬の寒い時期に行うのが良いとされており、染める季節(外部環境)によっても色合いに差が現れてきます。
紅染めの一例
まず、紅餅(花餅)もしくは、紅花1kgを16リットルの冷水に2時間ほど浸し、浸したものを麻袋に入れてしっかり絞ります。
ふたたび16リットルの冷水に浸して2時間ほど置き、しっかり絞って、抽出された黄色い液体を染めるために使用します。
水につけている時間と、絞る回数は、抽出する原料にあった適切な方法で行うことが大切です。
摘み取った紅花をそのまま乾燥させたものを乱花と言いますが、例えば、中国産の乱花を染める場合は、絞る回数を多くする等、使う原料にあった工夫が必要です。
例えば、6gのシルクハンカチを染める場合、最も濃い紅色を出すためには絹の重さに対して5倍〜7倍の紅餅が必要になりますが、普通はこんなに使うことがないので、中濃度の紅色で2〜3倍ほどの紅餅を使用します。
6gのシルクハンカチ1枚染めるために必要な栽培面積は、1㎡(100cm×100cm)ほどになります。
液をさらに抽出
抽出液を絞った花を藁灰の灰汁16リットルに入れ、しっかり混ぜて、3時間ほど放置します。灰汁がない場合は、炭酸カリウム80g(紅花の量のに対して8%)溶かした水を使用します。
麻袋に入れて花を絞り、液を抽出し、花を再び灰汁12リットルに入れて、2番液、3番液と取り出します。
抽出液を中和
抽出液に、クエン酸を加えると泡立ち、アルカリ性に傾いていたのが中和し、鮮やかな紅色に変わります。
灰汁を使用した場合は、phに前後があるのでクエン酸を少しずつくわえながら混ぜて、泡立たなくなるタイミングが頃合いとなります。
炭酸カリウムを使用した場合は、炭酸カリウムの量に対して1.2倍のクエン酸を使用します。
クエン酸が多すぎると、紅の色素が沈殿してしまうので、中和してからいくらか酸性に傾いた状態が良いようです。
昔は、クエン酸そのものを使用することはできなかったため、梅剥や鳥梅を使用していました。
梅剥は、青い梅を干瓢を作るように薄く皮や果肉を剥いてから、乾かして乾燥させます。使用する際は、梅剥を水かお湯に浸して、成分を抽出した液を中和するために使用します。
烏梅とは、梅の実が熟す前の未熟なうちに収穫して釜戸の煙で黒く燻したものですが、梅剥と同様に使用する際は、水かお湯に浸して成分を抽出した液を使用します。
実際に染める
中和して、鮮やかな紅色になった染め液に、しっかりと事前に水やお湯などで浸透させておいた布や糸を入れます。
色素は、素早く素材に吸収されていくので、ムラにならないように全体がしっかりと染まるように広げていきます。
1時間ほど浸した後に、染めているものを取り出して、染め液を30度に加温して再び浸していきます。染め液が30度以上を超えてしまうと、茶色味が出てきてしまうので注意が必要です。
1時間ほどで色素が吸収しつくされるので、染め終わったものを絞ってから、酢酸20cc(染める量に対して2パーセント)を入れた水に30分ほど浸して、その後しっかりと水洗いして乾燥させます。
乾燥する際、紅花染めは、日光に対しての堅牢度が弱い(日光によって退色しやすい)ため、風通しの良い場所で陰干しします。
濃い色にするためには、上記の染め方を繰り返しおこなっていきます。
鴇色のように薄い色は、花の分量を少なくしますが、薄い色は堅牢度がよくないので、実用品(ex.商品として生産する)には基本的に向きません。
紅花は、重ね染にも使用され、紅と黄色で橙色系になり、藍染めで染め重ねることで、紫色系に染まります。
紅花の薬用効果
紅花を乾燥させた花弁は、漢方薬の「紅花」として現在でも販売されています。
花弁を煎じて服用すると、婦人病や更年期障害、冷え性などに効果があると言われています。
また、口紅は唇の荒れを防ぎ、血行を良くするとされ、種子に含まれる油には、リノール酸が含まれているため、血液中のコレステロール濃度を低下させ、動脈硬化を予防するとされています。
紅花の歴史
紅花の原産地は、中央アジアやエジプト、メソポタミア地方あたりではないかとされていますが、はっきりはしていません。
紅花が日本に渡来したのは、シルクロードを通じて古墳時代に伝来し、古代中国から「呉藍」として輸入されたものと伝えられています。
花は染料としてだけでなく、薬用としても用いられ、種子からは油も絞れるため、幅広い用途に使用されました。
6世紀後半の藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町)からの出土が最古とされていましたが、3世紀の纏向遺跡(奈良県桜井市)から、紅花の花粉が確認され、「卑弥呼の時代の紅花染」として話題になりました。
7世紀後半から8世紀後半にかけて編集された、現存する日本最古の歌集である『万葉集』には、”紅染”の歌が多く収録されており、紅を詠んだ歌は32首あり、そのうち9首が長歌です。
ただ、紅花そのものを詠んだものが1首もありません。
『万葉集』のなかで紅を詠んだものは、奈良時代になってからのものと考えられているため、飛鳥時代に大陸より渡来した紅染が、奈良時代に普及したと推測されています。
紅花で染めたものを紅ともいいますが、くれないの元になったのはくれのあい(呉の藍)で、中国から渡来した藍(紅)という意味だとされます。
藍と紅は、もともとは「染料」を表す同義語だったとされ、平安時代に藍と紅の二種の藍(染料)で染めた色を「二藍」という色名で表現したのも、そのように考えると理解ができます。
紅花の色の美しさは、古代から人々を魅了してきましたが、特に平安時代の貴族達の紅への執着は王朝文学などから見てとれます。
もともと茜染が庶民のものであったのに対して、紅染は上流階級の人々のためのものとされ、奈良時代から平安時代にかけては、「宮中の流行色」となっていたようです。
紅染の赤は、その希少性から非常に高価なものであったため、平安時代には濃い紅染の使用は禁止されていました。
平安時代の延喜5年(905年)に編集がはじまり、延長5年(927年)に完成した『延喜式』には、紅花の染色名と染色に必要な材料や媒染剤などの記載があります。
『延喜式』において赤系統の色は、「緋」と「紅」に分類され、「緋」は茜で、紅は紅花で染め分けられていました。
紅花は、化粧品としての紅にも加工され、正倉院宝物の「鳥毛立女屏風」の女性の唇は紅で染められています。
『正倉院文書』のなかには、「紅紙」、「深紅紙」、「中紅紙」、「浅紅紙」などの名前がいたるところに記されています。
紅は、藍や他の染料植物とは異なり、栽培地やその周辺で紅の製造や染色が行われるというわけではなく、古代、中世、近世を通じて、特に京都の紅花問屋が全国各地から集積される紅花を独占的に扱い、紅を作る紅染屋によって加工されました。
理由としては、紅の製造技術は高度で難しいものであった点、秘伝や口伝によって受け継がれてきた点、染織産業が京都で発達していたことなどが挙げられます。
江戸時代後期になると江戸でも紅の製造が行われるようになりますが、技術や生産量ともに京都には及びませんでした。
江戸時代になってからも紅染の着物は、人々にとってあこがれの色だったのです。
紅花の産地
江戸時代は貨幣経済が浸透してきたことから、商品作物や各藩の特産物として換金作物の栽培が推奨され、特に重要な作物は「四木三草」と呼ばれました。四木は茶、楮、漆、桑、三草は藍、麻、そして紅花でした。
紅花の栽培に適した土地は、水はけが良く、日当たりの良い砂質の土壌で、堆肥を加えながら土を耕し、phは6.8〜7.1ぐらいが理想とされます。
日本においては、山形県の最上川流域は、古くから良質な紅花の生産地として知られていました。
この地域で栽培されるようになったのは、鎌倉時代あたりからといわれいます。
江戸時代になると最上川流域で急速に栽培が広がっていき、享保年間頃(1716年〜1736年)には全国の紅花出荷量の半分近くを占めていたとされ、「最上千駄(千駄は「たくさん」の意味」)と呼ばれるほどの生産量を誇っていました。
山形で紅花栽培が盛んになった理由としては、山形地域の気候や土壌が適していたことに加え、藩が紅花を重要特産物として保護していたこと、内陸で収穫した紅を最上川から運び、日本海に出て京都へ直送できるという輸送における大きな利点がなど挙げられます。
江戸時代中期には、京都で使用されていた紅花の6〜7割は、最上地方の紅花であったといわれ、「最上紅花」と呼ばれていました。
ただ、山形では紅花栽培は行われていたものの、紅餅への加工や紅の精錬、紅染等は特に行われていなかったようです。
『延喜式』には紅花を栽培していた国(日本各地)についての記述もあり、平安時代には関東地域で紅花栽培が行われていました。
近世後期の紅花の産地は、武蔵国(現在の東京都、埼玉県のほとんどの地域や神奈川県の一部)、陸奥国(現在の青森、岩手、福島、宮城、秋田の北東部)、常陸国(現在の茨城県北東部)、上総国(現在の千葉県中央部)、紀伊国(現在の和歌山県全域と三重県南部)、山城国(現在の京都府南部)などがあり、競争の激しい商品作物でした。
武蔵国の紅花は特に良質であるとして次第に高値で売れるようになり、安政年間(1854年〜1860年)の最盛期には山形に次ぐ、全国第二位の生産高を誇っていました。
日本の染料として重要な役割を果たしてきた紅花は、明治20年(1887年)〜30年頃(1897年)になると化学染料に押され、さらに第二次世界大戦後、生産量も衰退し続けました。
関連記事:縞帖(縞帳)とは?縞帖の特徴から時代の変化を読み解く(手紡ぎ糸から紡績糸へ、天然染料から化学染料へ)
紅花は現在でも、山形県の一部地域で栽培されています。
【参考文献】
- 『日本の色彩 藍・紅・紫』
- 『月刊染織α 1981年11月No.8』