山藍(学名 Mercurialis leiocarpa) は、トウダイグサ科、ヤマアイ属の植物で、群をなして生い茂ります。
学名のMercurialis leiocarpaは、江戸時代の弘化2年(1845年)にドイツ人のシーボルトが日本古来の資料をもとにして命名し、Mercurialisは、ギリシャ神話の女神である「マーキュリー」からとったもので、leiocarpaは「平滑な果実」の意味であるとされています。
トウダイクサ科の植物は有用なものが多く、パラゴムノキやマニホットゴムなど樹液から天然ゴムが採れたり、タピオカの原料になるキャッサバ、種子からひまし油が採れるトウゴマなど様々あります。
目次
山藍(ヤマアイ)の特徴
山藍は30cm~40cmの高さに成長し、根っこは白色で横に長く伸び、細根をつけます。
ほとんどの書物では、雌雄異株となっていますが、山藍の研究で知られる辻村喜一氏は、雌雄同株であると指摘しています。
花は、早春の1月頃に緑白色の小花を穂状につけて咲きます。
4月ごろに小さな実をつけて、それを採取して乾燥させると緑色が藍色に変わります。
広げて乾燥させておくと、種がパチパチとはじけて、あたりがゴマをまき散らしたようになります。
種がはじけて飛んでいくことで、繁殖が広がっていったようです。
山藍の分布
山藍の分布は、本州中南部から四国、九州、沖縄、中国、タイ、インドなどの暖帯、熱帯地域にも及んでいます。
日本において自生している場所は、特に紀伊半島を中心に分布していることが辻村喜一(著)『萬葉の山藍染め(1984年)』に記されています。
民俗学者であった宮本常一氏(1907年〜1981年)の著書『塩の道』には、山藍に関する記述がありますが、彼が調査していた時代においても山藍に関する情報が非常に限られていたことがわかります。
以下、宮本常一(著)『塩の道』からの引用です。
江戸時代に入りますと、蓼藍が作られるようになります。それまで藍の原料というのは山藍が主であったのです。自然生の、山に生えている藍、それを採ってきて、それで染め物をしていました。これは限られていました。どこに山藍があったのだろうかということで、私は先輩から山藍のあるところについて教えてもらったことがありますが、昔はかなりあったけれど、いまはないということです。
いま残っているのは京都の石清水八幡の森の中にあるのです。それ以外にはあまり目につかない。それほど山藍というのは少ないものなのです。したがって中世の染め物を見ると、藍系統のものはたいへん少ないのです。ところが蓼藍が渡ってきて、日本で作られるようになります。宮本常一(著)『塩の道』
歴代天皇の即位の際に着用する小忌衣を染めた山藍は、京都の石清水八幡の森に山藍が自生していたものを使用していたとされており、現在でもおそらく見つけることができるのではないでしょうか。
染色・草木染めにおける山藍(ヤマアイ)
生葉の絞り汁を用いると、緑色に染まりますが堅牢度は悪く、すぐに退色してしまいます。
山藍の根っこは、抜いてすぐは白い根ですが、しっかりと乾燥すると4日目くらいから青色に変わりはじめ、10日ほどすれば濃い藍色になります。
紀州藩の本草学者であった小原桃洞(1764年〜1825年)の遺筆が嘉永3年(1850年)に出版されていますが、その中で山藍の根が乾燥すると見事な藍色になることを記しているのです。
ただこの青い色素は、インディゴではありません。
どのような成分かというと、結晶美術館「山藍の謎」という記事に詳しく記載されています。
以下、引用です。
この青色の原因は、天然に発生する準安定なラジカル陰イオン(普通は不安定な奇数電子の化学種)で、シアノヘルミジンという物質である。植物生体に含まれているときは無色の物質ヘルミジンのタンパク質と結合した誘導体であるが、乾燥させるとヘルミジンが発生し、酸素酸化によりヘルミジンがシアノヘルミジンに変わる。
シアノヘルミジン分子は電子の共鳴によりラジカルおよび陰イオン中心が分子全体に非局在化しており、これが安定化の鍵になっている。一般に、ラジカルやラジカルイオンは、そうでないものに比べ吸収波長が極端に長波長シフトし、極めて鮮やかな色を出しやすい。
しかし、ラジカル類は通常酸素などに対し不安定で寿命が短く、有機化学的な常識からはむしろシアノヘルミジンはラジカルとしては驚異的に安定な部類といえよう。青色を呈する安定なラジカルイオンとしては、ラピス・ラズリのトリスルフィドラジカルアニオン(ラピスラズリの項参照)があるが、これはケイ酸塩のカゴの中で完全に外界とブロックされているので、酸化されずにすんでいる。
これら以外に、ラジカル種が着色中心となっている色材はない。しかし、やはりラジカルとしての反応性を持っていて、ゆっくりと二分子が結合(二量化)し、一週間ほどかけて炭素ー炭素結合を形成したクリソヘルミジンという赤い物質に変化する。そのため、ヤマアイの根の青い抽出液をそのまま単独で使って絹を染めても、一週間もすると赤くなってしまう。引用:「山藍の謎」
上記の引用では、青色の原因はシアノヘルミジンという物質によるもので、媒染せずに単独で絹を染めても、一週間もすると赤く変色するとの記載があります。
山藍の根を利用した染色方法
山藍の根を利用した染色方法ですが、山藍研究の辻村喜一氏の方法を取り入れると、まずは青色に変化した根っこを細かく刻み、すり鉢ですり潰します。
すり潰した量の2倍の水を加えて練り、練ったものを布で絞るように漉して青色の液を抽出します。
染め液を刷毛染してから乾燥し、2パーセントの硫酸銅液で刷毛引きし(媒染)、乾燥させるという工程を繰り返すことで濃度を濃くしていきます。
媒染剤によって色が変わり、銅媒染で藍色、鉄媒染で茶色に染まります。
4回ほど染めと媒染の作業を繰り返せば、十分な濃度になります。
謎に包まれてきた幻の山藍の歴史
山藍の染めに関しては、歴史があまりにも古いため、わからないことが多く、これまでに諸説ありました。
山藍と名付けられた由来としては、畑で栽培する蓼藍に対して、山に自然に生えていたから山藍といって区別していたと考えられます。
山藍で染めた小忌衣を着用する天皇即位の儀式である大嘗祭が奈良時代から約800年続いたとされていますが、応仁の乱から200年間も中絶します。
その染め色が緑色であったか、藍色であったかは未だにはっきりしていません。
江戸時代になり貞享4年(1687年)、大嘗祭復活の運びになりますが、その頃の山藍に関する文献がなく困っていたところ、吉田ト部家という旧家に旧記があり、「山藍がなかったのでただ青色に染めた」と伝えられていたようです。
享保14年(1729年)に出版された徳川吉宗の『式内染鑑』には、「山藍は未だその形状を知らず」となっています。
ところが、徳川吉宗が桜町天皇(1726年〜50年)の大嘗祭において、紀州から小忌衣を染めるための山藍を1738年に献上させています。
この時の山藍染めがどのようなものであったかというのは、意外な結論になっており、大嘗祭の記録係であった荷田在満の『羽倉考』には、「太古の山藍は、他の何物でもなく、中国渡来の蓼藍のことだ」と論じているのです。
これは、山藍で染めてみたが、思うように藍色にならず、やむなくこのように報告したのではないかと山藍研究の辻村喜一氏は指摘しています。
この荷田在満による報告が、後の山藍に関する議論に少なからず影響したと考えられます。
また明治のはじめ頃に、鹿児島県でキツネノマゴ科の琉球藍に対して「山藍」という別名をつけたことによって、山藍と混同する例が増加し、明治・大正の時代に山藍に対しての誤解が多く広まっていきました。
「山藍は天然の藍」とみなされることが多くありましたが、いわゆる蓼藍やインド藍のように葉っぱに青色の色素があるわけではなく、一般的な草木染めのように媒染することで染められるのです。
藍という名前はついてはいますが、山藍は紺屋における藍の仲間ではなかったと山藍の研究の辻村喜一氏は結論づけています。
山藍について過去の文献における記載など詳しく学びたい方は、辻村喜一(著)『萬葉の山藍染め』を読んでみてください。
山藍を詠んだ古歌
山藍は源氏物語や枕草子、太平記など古典文学に数多く登場しています。
皇室の儀式や神社祭礼の古典舞楽などにおいて、山藍染された小忌衣(祭服の一種)が伝承されていることがよく伝わってきます。
「足引の山あいにすれる衣をば神につかふるしるしぞと思ふ」 平安時代『貫之集』紀貫之
「あはれしれしもよりしもにくちはてて四代にふりぬる山あゐの袖」 鎌倉時代 拾遺愚草 定家
「立ち返る雲井の月もかげそへて庭火うつろふ山藍の袖」 鎌倉時代 新勅選和歌集 成実
「山あゐの袖の月影さよふけて霜ふきかへす加茂の河風」 室町時代 風雅集 為成
「昨日かも葵かざしし宮人の山あゐの袖に霜ぞおきける」 江戸時代 うけらが花 加藤千蔭
「山あゐにすれる衣の夜をかさね御手洗川もこほりゐにけり」 江戸時代 千々廼屋集 千種有功
上記の歌はほんの一例ですが、このように山藍で染めた小忌衣などの衣類を着用した人々の姿を歌った文学はあるものの、山藍の草そのものを観察したり識別する記録は残っていない点について疑問が残ります。
【参考文献】