川越唐桟(かわごえとうざん)

なぜ、江戸時代に縞柄の着物を着用することが粋(いき)だったのか?


江戸時代後期に、町人の間で好まれた模様(文様)が縞です。

縞は英語で「stripe(ストライプ)」ですが、柄を表現するのには、シンプルであるがゆえに、色糸、柄の大小や間隔の組み合わせによって無限大の表現方法があると言えます。

縞柄の歴史

江戸っ子に好まれた川越唐桟『川越唐桟縞帳』

江戸っ子に好まれた川越唐桟『川越唐桟縞帳』

縞の文様は、古くは飛鳥高松塚古墳たかまつづかこふんの壁画に描かれている女子の装いや、正倉院宝物しょうそういんほうもつの染織品にも見ることができます。

ただ、古代中世を通じて、公家はもちろんのこと武家や庶民も着物に縦縞をほとんど用いなかったようです。

縦縞と横縞の組み合わせで作られる格子柄は、平安時代末期から鎌倉時代の絵巻にちらほらと見えたため、技術的には縦縞が作らなかったわけではないと考えられます。

つまり、当時の服装様式に合わなかったため、縦縞が使われなかったのではないかと推測できるのです。

上着や一枚着として着物に縦縞が見られるようになったのは、安土桃山時代(1573年〜1603年)以降のようです。

縞の由来

縞織布『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

縞織布『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

縞は当て字で、もともとは南方の島から舶来したという意味で、しまと書かれました。

舶来した織物のうち、やや庶民的なものに対して縞と呼んでいた節があるようで、それはつまり、縞や格子柄は正装としては着用しないものとされていたのです。

一方、室町時代から江戸時代初期まで、間道かんどうといわれる絹や木綿の上品で立派な縞織物が、茶人や文化人の間でもてはやされました。

安土桃山、江戸時代初期にポルトガルやスペインなどの南蛮船によってもたらされた織物の中に、インド・セイロン・ペルシャ・ベトナムなどの嶋物があり、それらは当時の文化人を魅きつけたのです。

外国からもたらされた嶋物は、原産地や積出港の名前をとって、桟留嶋さんとめじま、ベンガラ嶋、セイラス嶋、占城(ベトナムのチャンパ)カピタン嶋などと称され、人々の憧れの品でした。

特に桟留嶋さんとめじまの人気は高く、日本でもそのコピーが多く作られるようになると、海外からやってきた本物を唐桟留とうさんとめと呼び、略して唐桟とうざんと呼ぶようになりました。

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ちなみに「さんとめ」という名前は、インド南東部のチェンナイ付近にあるサントメ(Santhome)から渡来したことに由来するものです。

日本独自の縞織物が生産される

海外から様々な縞織物が届いたことによって、それを真似するところから始まり、徐々に日本でもオリジナルな縞織物が生産されるようになります。

縦縞と横縞、格子柄などが主になりますが、江戸の「粋」であることを好む町人は、特に縦縞を愛用したのです。

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縦縞は着用すると、縦方向の平行線が体の線に沿って表現されるため、色気を漂わす雰囲気やキリッとした洒落感が江戸下町の町人の好みにあっていたのでしょう。

一方、縞の織物が着用の際に乱れた曲線の印象は、色めかしさがありますが端正さに欠け、品格に合わないものとして、公家や武家には相応しくないものとされたのです。

ただ、武家の袴に関しては例外で、袴の裁断方法によって直線的な輪郭線が崩れにくい形となるため、普段着る平袴や旅行用の野袴などの縞に使われていました。

なぜ、江戸時代に縞柄の着物を着用することが粋(いき)だったのか?

縞について語る上では、必ず「いき」という言葉がついて回ります。

粋は、「意気いき」または「いき」という言葉に通じ、俗っぽくなく、すっきりとあか抜けているようなお洒落さや、なまめかしさを感じるような色気あるものに対して言います。

格式や威厳を重んじる武家社会から生まれた言葉ではなく、江戸時代後期、気さくで嫌みのない江戸下町の町人気質から生まれ、都会的に洗練された美しさを示すものなのです。

野暮ったさや田舎臭さは、その対局にあるような言葉です。

当時は、「粋な調子」を表すのに、縞の小袖(着物)がうってつけだったのです。

もちろん縞だったらすべてが良いというわけではなく、太からず細からず、適度な縞の細さが必要で、着る人次第によっても粋にも野暮にもなる代物だったでしょう。

髙田倭男著『服装の歴史』には、縞が「いき」とみなされるのは決して偶然ではないと、九鬼周造くきしゅうぞうの著書『いきの構造』を踏まえながら以下のように記しています。

「いき」の構造は、「媚態びたい」と「意気地いきじ」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態びたい」はその基調を構成し、第二の「意気地いきじ」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。

それから自由芸術として第一に模様は「いき」の表現と重大な関係をもっている。しからば、模様としての「いき」の客観性はいかなる形を取っているか。

まず何らか「媚態びたい」の二元性が表されていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦め」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。

さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性をよく表しているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。

模様としての縞が「いき」と看做みなされるのは決して偶然ではない。

「粋」であることの重要な要素である「媚態びたい(色気)」は、常に「意気地(意志強さ・張りがある)と「諦め(執着しない姿勢)」によってバランスがとられています。

「意気地」と「諦め」が「媚態びたい」に対して良いバランスを取っているからこそ、魅力的な「媚態びたい(色気)」となって、それが「粋」だというわけです。

粋の中心的魅力である媚態に対する意気地と諦めの関係性は、二元性を持っているとされます。例えば、媚態びたい(色気)で相手に近寄っていくけれど、あえて意気地(意思の強さ)を張って反抗するというようなことです。

粋という二元性を持つ概念を象徴するデザインとして、幾何学的図形的に永遠に動きつつ永遠に交わることがない平行線である縞が、人々から好まれたのは必然だったのでしょう。

「いき」の構造』は、様々な視点から日本人の感性の一つとしての「いき」について考察しています。

様々な言語に翻訳され、世界的にも広く読まれており、内容は難解な面もありますが、読む価値のある名著です。

【参考文献】『服装の歴史


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