インド更紗

ヨーロッパにおけるインド更紗の歴史


16世紀ごろから、ヨーロッパの東方進出によって、インドで生産される染織品の優秀さが知られるようになります。

木綿、羊毛、絹などの織物や更紗など、優れた染織品が世界中に伝わっていき、日本にその当時に輸入された綿織物の多くもインド産のものでした。

インド更紗は、17世紀にオランダやイギリス、フランスやポルトガルなどのヨーロッパの列強が東南アジア貿易の拠点として作り上げた「東インド会社」によって、大量にヨーロッパにもたらされました。

17世紀にヨーロッパ社会に登場したインド更紗は、18世紀〜19世紀にかけてヨーロッパの文化や経済を根底からくつがえす大きな力の一つとなったのです。

ヨーロッパにおけるインド更紗の歴史

捺染なっせんされた布であるインド更紗のもつ、多彩な色合いや異国情緒あふれる模様、軽くてしなやかな木綿の風合いは、フランスのブルボン王朝をはじめとする貴族階級から、町人階級にかけて、広く人気を博すことになりました。

その人気ぶりによって、ヨーロッパ各国では自国の繊維産業が大きな痛手をこうむることにもなり、太陽王といわれたルイ14世は、1668年に以下のような内容のインド更紗禁止令を出しています。

インド製およびわが王国内で模倣してつくられる模様染めの綿布の大部分は、王国内外の幾百万の輸送の原因となっているばかりでなく、フランスに昔から存在している、絹、羊毛、亜麻あま、大麻の織物工場の縮小の原因ともなり、同時に職人の破産、失業をひき起こしている。陛下は閣議において、この禁令の発布する日より王国内であらゆる白綿布の染物工場の活動を停止し、その捺染なっせんを行なう型をとりこわし、破棄するように命ぜられたのでここに命じる次第である」

上記の禁止令は、1759年まで続いたといいます。

イギリスでも、1720年にインド更紗禁止令が出され、1774年まで続きました。

禁止令をみても、インド更紗がヨーロッパに与えた衝撃は非常に大きいものがあったと考えられます。

インド更紗は、17世紀から18世紀のヨーロッパでは、マルコポーロの『東方見聞録』から伝え聞くような、インドや中国、黄金の国とされた日本などの「まだ見ぬ未知の世界」を伝える手がかりの一つだったのでしょう。

ヨーロッパの産業構造を変えるほどの影響を与えたインド更紗

綿織物の生産は、ヨーロッパの産業構造を大きく変え、発展させました。

例えば、イギリスのスコットランドにあるペーズリー市は、元々「けし」の花の栽培で有名になった街でしたが、カシミール・ショールの生産によってさらに有名になりました。

インドのカシミール・ショールに施された独特の松毬まつかさ模様は、その最大の生産地となったペーズリー市の名前を冠して、のちにペーズリー(Paisley)と呼ばれるようになりました。

17世紀〜18世紀にヨーロッパ社会に文化的にも経済的にも大きな影響を与えたインド更紗は、各国の禁止令にもかかわらず、人々の心をとらえ、やがて自国での生産を認めざるおえない状況になります。

特に、フランスでは、ブルボン王朝からの手厚い保護のもと、1761年にドイツ人のオーベル・カンプがパリ郊外のジュイにおいて工房を建て、更紗を生産しました。

従来のヨーロッパにおける更紗が、インド更紗の模倣や模造であったのに対し、カンプ自身による銅板捺染なっせんの開発によって、西洋風景模様を創造し、「ジュイ更紗」と呼ばれるようになります。

風景模様は、写実的な描写によって表現されており、当時のパリ郊外の田園風景や農村風景、人々の生活ぶりを表現しており、18世紀のフランスの農村地方の風俗や伝統を今に伝える資料としても参考になります。

オーベル・カンプに続き、各国で独自に新しい更紗が生産されるようになり、のちのヨーロッパのプリントデザインが発展していく土台となりました。

19世紀前半から後半になると、イギリス・ヴィクトリアン王朝の隆盛とともに、、前述のペーズリー柄を筆頭に、イギリス更紗(ヴィクトリアン・チンツ)が世界を席巻していくのです。

インド更紗が与えた影響は、ヨーロッパのみならず、現在のタイで産出されたシャム更紗やインドネシアのジャワ更紗、支那しな更紗や和更紗わさらさへとつながりました。

約5,000年の染織の歴史のうち、わずか300年足らずでこれほど世界中に大きな影響を与えたものはインド更紗以外ないのです。

産業革命とインド更紗

産業革命を経過したイギリスの綿織物工業は、インドの綿製品をモデルとして飛躍的に発展し、かえってインド市場へと輸出するようになります。

18世紀末から19世紀初めにかけて、インドへの輸出は約10年間の間に10数倍にも増加しました。

1828年には4282万反もの綿織物がインドへ輸出され、インドからの輸入は42万3千反と減少しています。

インドの主権は、1765年以来、イギリス東インド会社に移りましたが、1858年からはインド政府はイギリスの政府のもとに置かれ、名実ともにインドはイギリスの植民地となります。

インドの染織品における経済は、イギリスの産業政策の一環として運営され、その結果、インドで生産されてきた古来の伝統的な手工業による精巧な染織品は姿を消し、インドはイギリスへ原料となる綿を供給し、イギリスの綿製品を消費する市場となったのです。

1947年、第二次世界大戦の結果、インドはイギリスからの独立を達成して以降は、インドの染織技術は機械化・工業化が進んでいきましたが、手仕事による染織品の生産は近代化の流れとともに衰えていきました。

【参考文献】

  1. 『月刊染織α1986年6月No.63』
  2. 『草人木書苑 染織大辞典1』

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