車輪梅は、日本においては九州南部に自生しているものが多く、特に奄美大島ではテーチキ、テカチキと呼ばれ、大島紬における染料植物として有名です。
車輪梅は、2〜4mほどのバラ科の常緑樹で、名前の由来は、葉っぱが枝先に車輪状に付き、4月から5月ごろにウメに似た白色の花がウメにが、円すい状に集まって開花しすることから命名されました。
ツバキ科モッコク属に分類される木斛の葉っぱに似ているところから、ハマモッコクとも呼ばれたりします。
樹皮や樹木、根っこから作られた染料が、大島紬の泥染に使われることで知られている車輪梅について紹介します。
目次
染色・草木染めにおける車輪梅
奄美大島は、薩摩藩に治められていた期間が長くありました。
薩摩藩は、享保5年(1720年)、奄美の島々に対して「絹着用禁止令」を出し、島の役人以外の一般島民に絹着用を禁止しました。
この禁止令は、「紬」が大島の文献にあらわれた最初のものであるとされ、この頃には大島紬が一般に普及していた可能性がうかがえます。
奄美大島において、車輪梅は大島紬の歴史とともに染料として活用されてきました。
車輪梅の樹皮や材木、根っこにはタンニンや茶褐色の色素が含まれており、先に車輪梅で染めてから、泥の中の鉄分で媒染することで、黒みを帯びた茶色である黒褐色に染まるのです。
車輪梅を煮出して、色素の抽出を効率的に行うために石灰を加えたりします。この煮汁で染めた絹糸は、赤褐色になります。
鉄分の多い土を選んで、「泥田」をつくり、この中に浸しては揉み込みを繰り返しながら、黒褐色の色合いまで染め上げていきます。
泥大島とも呼ばれた大島紬の絹糸は、何回も繰り返し染色されるため、糸の風合いがやわらかくしなやかに、絹特有の色のつやは消え、織り上げられたものは軽く、製品になった時にシワにもなりにくくなります。
泥染めは、大島紬の大きな特徴ですが、もう一つの特色は精緻な絣によって、柄が構成されている点です。
古く、薩摩藩は藩の財源として大島紬の絣技術にとてつもない精巧さを要求しました。島民は、年貢品として上納するために、厳しく取り立てられた歴史があり、その苦労のなかから発展して技術であったとも言えます。
車輪梅(しゃりんばい)の染色方法
『月刊染織α1994年4月号』に、実際に染めてみた例が記載されているので紹介します。
この染色方法は、泥で媒染せずに、車輪梅を染色に用いる方法です。
車輪梅の染液をつくる
①まず、原木を砕いて、厚さ0.5cm~1cmほどのチップ状にする
②チップ30kgに炭酸ナトリウム45gを加え、水に浸かるようにして鍋に入れ、約6時間煮沸する
③染液をふるいでろ過してクズを取り除き、90リットル分に調整
④3日間後に、染色に使用する
染色と媒染
①シルク糸400gを染液16ℓで沸騰するまで加熱したあと、1時間そのまま放置して冷やす
②次に、0.02%クロムみょうばん水溶液40ℓに糸を分浸けて、媒染
③糸を自然乾燥で干した後、鍋にいれて、1or2ℓの染液をかけ、5分間揉み込み染色
④再び、染液16ℓで煮沸するまで加熱
⑤1時間、そのまま放置して冷やしてから②→③の工程を行う
⑥3回目と同じく繰り返し、4回目の煮沸染色をおこなった後、水洗いをして染色が終了
この染色によって色合いが濃い茶色となり、光に対する堅牢度が4級、重量増加率は8.9%になったようです。
田んぼで泥染
大島紬の泥染と原理的にはほどんど同じようなもので、田んぼの泥に含まれる鉄分を利用して媒染をしていく染色も行われていました。
石川県金沢市にある釣部町においては古く、田んぼの泥の鉄分を利用した田んぼ染(田圃染)が行われていたようです。
田んぼ染をしていたのは、大正時代初期までで、中期以降には行われてなかったようです。
田んぼ染の原料は、山漆の葉を干したものを煎じ、その汁を用います。
煎汁に漬けた布を、田んぼへ漬けて媒染することで染めたと考えらえます。
黒染めする田んぼを、泥場田や泥機といいました。
【参考文献】『月刊染織α1994年4月No.157』