和服・着物における帯は、主に和服の胴部分に巻きつけて、着物がはだけるのを防いだり、下半身に着用している衣服がずり落ちないようにしたりする役割のものをいいます。
かつては帯で武器などを体に固定しておいたり、権威などの象徴として装飾的な性格も持っていました。
帯(おび)の由来と歴史
着物などの和装用の帯は、古くは紐というべきものでした。
『古事記』(712年)では、「多羅斯(たらし)」とも表記しており、由来としては結んだ紐の端を垂らしていたからとされます。
奈良時代には、綺(日本古代の織物の名で、幅の狭いひも状の織物)の帯や倭文帯があり、女性の礼服には紕帯(添帯)という飾り帯もありました。
平安時代の装束には、中結と呼ぶ実用帯がありました。
装束の簡略化していくにつれて、中衣であった小袖が表衣化していくと、中結も表に現れて装飾的要素が強まっていきます。
中世の末期ごろには、小袖に帯を締める小袖帯の形式が確立し、小袖の発達とともに帯は次第にその幅を広げ、丈も長くなっていきました。
室町時代には男女ともに2寸から2寸5分ほどであった帯幅は、男帯で3寸止まりですが、女帯は慶長から寛文(1596年〜1673年)に頃は3寸ですが、延宝から天和(1673年〜1684年)にかけて5〜6寸となり、享保(1716年〜1736年)になると8〜9寸、文化・文政(1804年〜1830年)に至っては1尺5分にまで広がります。
紐の形状に近いくらいに細い帯は、「細帯」といい、現在のような幅広の帯が登場するのは、安土桃山時代(1568年〜1598年)頃からです。
帯の起源は、着用している衣服を固定するという機能面以外にも、下半身から悪霊が入るのを防ぐという呪詛(まじない)という側面もあったようです。
帯は古くからあった平絎帯が正式な帯で、女帯の丸帯、男帯の角帯はこの系統の帯で礼服にも用いられます。
女帯では丸帯に対して、2枚の帯側を縫い合わせた鯨帯(昼夜帯/腹合帯)が江戸時代中期ごろから用いられ、庶民の代用的な帯となりました。
20世紀初頭には、名古屋帯(なごやおび)という組みひも帯があり、幾重にも腰に巻いて結び垂らしていました。
帯(おび)の語源
「帯」の語源には諸説あり、以下のような言葉が挙げられます。
- 佩
- 負
- 大振
- 燕尾
- 緒結
- 大引
- 大紐
「体に着物を佩びさせる(取り付けて保持させる)」の意味がある佩が帯の語源として説得力があります。
「帯」の音読みでは「たい」ですが、字の冠(漢字の部首で上部に置かれるものの総称)は、「紐で物を通した」形であり、字の脚(下側に位置する部分)は「巾」(本来は礼装の際に用いる前掛け)→布」を表します。
したがって帯は、「布で巻き締める」という意味になります。
古代中国では帯を「紳」といい、「紳」は、「物を束ねる布」という意味で、「大きな帯」を指すようになります。
このことから立派な長い帯(大帯)を締めて身を飾った貴族、富裕階級の男性を「紳士」といったのです。
帯祝い(おびいわい)における岩田帯(いわたおび)
妊娠している妊婦が、安定期に入る妊娠5か月目頃の戌の日に、「岩田帯」と呼ばれる腹帯を巻いて安産を願う風習(帯祝い)があります。
安産祈願のための「帯祝い」は、江戸時代に行われるようになった日本独特の文化です。
帯祝いの由来としては『古事記』(712年)の記載における「神功皇后が懐妊された際の帯に関する記述」が起源になったともいわれています。
帯祝いに使用される岩田帯は、本来「斎肌帯」のことで、お腹を保護し、冷やさないために保温し、胎児の位置を正常に保つ目的がありました。
妊娠5か月目頃の戌の日に「帯祝い」が行われた理由としては、縁起の良い「5」という数字と、多くの子を安産しお産が軽いとされる犬にあやかるためとも言われます。