編み物技術の起源としては、はっきりとしたものはありませんが、編み物(ニッティング)は、およそ3000年前に、アラビア半島に住む遊牧民によって、彼らが自ら率いる羊や山羊の毛を使って行われていたとも考えられす。
編み物は、アラビアの商人や船乗りによって、徐々に他国に伝わっていき、編み手は旅する時に、編針と糸を持参して、編みながら立ち寄った港の人々に技術を伝えたとされます。
ただ、歴史的に参考になるような品々や資料は、ほとんど残ってない状況です。
現存する最古の編み物に遺品とされるものは、11世紀後半から12世紀前半ごろに作られたとされ、エジプトで発掘されたくつ下の一部です。
この時期にはすでに編み物が技術的に発達していたことが、うかがい知れるのです。
目次
ヨーロッパにおける編み物(ニッティング)の歴史
編み物は早い時期に東は、チベットにまで広がり、近代になるまでヒマラヤを越して中国までは伝わらなかったようです。
織物技術がいかにしてヨーロッパに入ってきたのかは確かではありませんが、東方諸国からの品々の集積湾であったベニスを経て入ってきたか、711年〜712年にイベリア半島を征服したムーア人によってスペインにもたらされたのではないかとも言われます。
スペインをはじめ地中海沿岸地方やヨーロッパ全土には広まり、アフリカにはヨーロッパ人が進出するまでは伝わりませんでした。
エジプト人はアラビア人から編み物を習ったようで、4世紀から5世紀にかけて編まれたものが発見されています。
中世に作られたもので現存する編み物作品に、スペインのバーゴス地方のカスティールの王達の墓から発掘された枕(クッション)があり、これはstocking stitch(メリヤス編み)で編まれ、絹糸で幾何学模様と、紋章が絹糸で表現されています。
中世に作られたもので現存する作品のほとんどは絹を素材とした手袋やくつ下で、これらはお金持ちによってのみ使用されていたと考えられます。
なぜなら、17世紀後半に至るまで、一般的には織布を縫い合わせて手袋やくつ下は作られていたためです。
手袋はカトリック教会の礼拝に使用されていたため、教会の墓跡から多くの遺品が見つかり、赤色の絹糸でできくつ下と手袋がイギリスで発見されていますが、これは14世紀ごろのものとされ、イギリスにおける最古の編み物となっています。
文献に編み物と編み手が登場
編み物と編み手が文献に登場するのは、15世紀に入ってからで、その頃から編み物の需要は高くなったと考えられます。
イギリスの編み手は、紡毛糸(ウールなどの動物繊維の短い毛を紡いでつくられた糸)をよく使用したようで、帽子の遺品があちこちで発見されています。
1571年にイギリスでCappers法が設けられ、この法は女中・貴婦人・貴族・土地もちの高貴な紳士以外のすべての人々は、日曜と休日には(旅に出ている時は例外として)帽子を被らなければならないというものです。
帽子の製造業がイギリスの工業において、いかに重要であったかがCappers法からうかがえます。
1552年にイギリスで制定された調整法によると、編み物業者はくつ下やペチコート、手袋などを生産し、材料としては羊毛(ウール)と絹が使用されました。
ジャージー編み(Jersey)やガンジー編み(Guernsey)は、有名な島の名前が由来ですが、良い紡毛糸でニット製品が作られ、これに関する文献は多く残っています。
編物組合(ギルド)が各地で設立
イングランド王国およびアイルランド王国の王朝であるチューダー朝のうち、エリザベス1世の治世期間であるエリザベス朝時代(1485年〜1603年)には、編み物の全盛時代といえ、当時はすぐれた技術が生まれ、イギリスやフランス、ドイツやイタリアにおいても編物組合(ギルド)が設立されました。
編物組合の加入条件は難しかったようで、少年たちは、6年間組合に奉仕しなくてはならず、はじめの3年間は師匠につき、後の3年間は新しい技術の習得のために他国に修行旅行に出かけました。
6年間が終わると、終了試験が行われました。
試験は厳しく、13週間のあいだに、花と葉、鳥と動物の柄が編み込まれた150cm×180cmの大きさの敷物、ベレー帽、ウールのシャツ、刺繍のあるソックスを編まなければなりませんでした。
当時は、最上の編み物はまだ男の手によって作られ、女性は男のために糸を紡ぎ準備するにすぎず、組合にも加入できませんでした。
絹の編み物
絹の出現は、ヨーロッパの編み物に影響を与えます。
16世紀に入ってから、絹の入手が容易になってきると、錦織や浮織の布にも似た、金糸や銀糸で模様をふち取ったりした高価で豪華なくつ下や衣服が作られるようになります。
絹のくつ下や服は王族に尊ばれ、1500年代には、デンマークの王様はオランダからくつ下をもらっています。
デンマークの王は、その贈り物を大変気に入り、国民に編み方を習わせるために、オランダの編み手を招き、移住させ、市民としての全ての権利を与える代わりに、デンマークの女性たちに編み物を教えさせました。
イギリスではエリザベス女王が絹のくつ下を気に入り、女王のくつ下のいくつかは、ビクトリア・アルバート美術館に保存されています。
編み物の機械の開発
最初の編み物の機械は、イギリスのWilliam Leeによって1589年に考案されたソックス(靴下)編みの機械です。
彼の妻は手でソックスを編んで売っていましたが、彼の発明のおかげで妻の仕事が楽になりました。
本来は、この職業は男性の領域でしたが、このLee夫人の記録は、編み物で収入を得た初期の女性の記録とされます。
19世紀初め、ヨーロッパで機械化が進むと、編み物組合の役目は終わりました。
手編みは機械が普及するにつれて、行う人が少なくなり、イギリスにおける編み物の衰退が著しかったため、1872年に技術の消滅を防ぐために、学校で生徒に編み物を教えるようにとの命令が下されたほどです。
ただ、家庭での手編みの技術は継承され、多くの地方では家内工業として編みの仕事は残りました。
日本における編み物の歴史
日本における編み物の歴史は、安土・ 桃山時代の1592年ごろにポルトガル人やスペイン人によって、手編みの靴下や手袋などがやってきたことが始まりとされています。
その後、1596年〜1614年の南蛮貿易時代の文献には「メリヤス」という言葉が記載されています。
今、現存するものとしては、常陸水戸藩の第2代藩主であった徳川光圀が着用していた綿とシルクの靴下がもっとも古いものとされています。
柄編みの靴下で、再現を試みたところ、一足つくるのに機械編みで数日かかったそうです。
徳川光圀といえば、創作物語である水戸黄門の黄門さまその人です。
編み物が一般庶民の生活の中に現れたのは、1673年〜1680年に書かれた俳諧集である「洛陽集」のなかにある「唐人の古里さむくめりやすの足袋」とされています。
手編みの技法に関しては、南蛮貿易が盛んな時代に最初は遊女に伝わったようです。
その後、手編みの技法は町人の間に普及しますが、そこから武家のものとなり、1804年〜1830年のころには、江戸で手袋を製造販売する人々が現れました。
手編みの普及によって、足袋、手袋、印籠下げ、襦袢、股引き、胴衣などさまざまな品々や衣服がつくられ、徳川時代の人々の生活のなかに取り入れられました。
生産の主な担い手は、江戸在勤の諸藩の微禄武士や浪人たちの手内職で、神田付近の糸屋、足袋屋が取り扱ったと伝えられています。
ニット生産の近代化
明治時代に入ると、メリヤスは「莫大小」あるいは「目利安」と書かれて大衆化していきますが、機械編みが本格的に始まったのは、明治3年に佐倉藩士の西村勝三(1836年〜1907年)が横浜外商館から、手回し式の小丸機、靴下編み機を手に入れて生産がはじまってからです。
明治6年(1873年)に開かれたウィーン万博から持ち帰られた編み機をモデルにし、東京府の楠本正隆が鉄砲鍛冶の名人であった国友則重に模倣品を作らせました。
国友則重は、直径8寸(約24cm)の円形に290本の線を切り込んで編機を作り上げたそうです。これが国産の編み機の第一号になりました。
明治8年(1875年)には、機械編みの靴下がはじめて清国に輸出され、その後のメリヤス産業は日清、日露戦争による軍事品生産を中心に急速に伸びていきます。
大正時代には、綿靴下、軍用手袋、肌着などから高級品までに用途を広げ、世界各国に輸出を伸ばし第一次世界大戦後にはイギリスをはじめとする欧米の水準に追随するまでにメリヤス産業が発達します。
その後、第二次世界大戦でメリヤス産業ももれなく壊滅的な打撃を受けましたが、GHQによる「繊維産業再建三ヶ年計画」によって、アメリカから提供されたCCC綿による生産の再開、朝鮮特需などの波にのり、さらなる飛躍の機会を得ることに成功しました。
メリヤスからニットへ
もともとメリヤスは、肌着や靴下を主に表す言葉でしたが、ファッション性の高い上着までにも生産が広がったため、より包括的に表す言葉として「ニット」という呼び名が使われるようになりました。
ニット生産の技術の発展は、合成繊維が発明されたことによってもたらされた影響が大きいですが、昭和40年代以降の高度経済成長と共に消費の多様化が進み、ニット生産の自動化、高速化が進みました。
高級な綿糸やコーマ糸の使用の増加により、糸の高品質化が進みより高級化したものが多く作られることになりました。
世界に目を向けてみると、エジプトは首都カイロの古代都市の遺跡から、二本針による靴下が発掘されたとあり、5世紀のエジプトでは、ループ編成をしたはき物が使用されていたというのは確かな事実なようです。
ニットの機械化は、1589年にイギリスはノッチンガムの牧師であったウィリアム・リーがひげ針を発明し、手動式の靴下編み機をつくったのが始まりと言われます。
その約200年後、1775年にイギリスのエドモンド・クレインがトリコット編機を発明し、経編みの機械化の先駆けとなりました。
1849年には、イギリスのマシュウ・タウンゼンドがべら針を発明し、この功績によってニット編み機は画期的な発展を遂げることになります。
産業革命では、紡績された織物の布が主役となり、ニットはあまり目立った存在ではありませんでしたが、ニットの技術も織物からはやや遅れる形ではありましたが急速に発展していきました。
【参考文献】『月刊染織α1984年2月No.35』